宇土古城 / 熊本県
GW、久々に帰省で熊本に帰りました!
というわけで、今回は私の故郷・熊本県宇土市のお城をご紹介しましょう。
(ここから長いので前置き最短で)
≪ 「宇土」とは? ≫
『宇土』という名前は、はるか昔の750年、正倉院の文書にて記載されており、歴史の長ーい地名。宇土半島というゾーンが昔『島』だったので、『浮土』と記載したのが始まりらしい。
長崎にも『宇土町』があって、そちらの『宇土』は『長く細い谷』という意味で名前がついたらしく、この長崎の宇土町と同じ由来なのではないか、という説もある。
そういうわけで歴史ある街なので、石器やら、土器やら、骨やら、墓やら、色々なものが発掘される場所なのだが、お城のブログなので、お城の話しかしない。
「宇土ってどこ?」と思っている方が大半だと思う。もしかして『天草』の方がメジャーかもしれない。『天草四郎』の『天草』はまあまあ近い、いや、近くないかも。位置関係的にはこんな感じ。
≪ 宇土氏の時代から始まる ≫
『宇土城』は実はふたつある。古い方と新しい方。古い方を『宇土古城』と呼ぶ。
『宇土古城』ができたのは、1048年、平安時代の中期。前回の江戸城編でふれた『平将門さん』が活躍したころと同時期で、身内同士の争いが多かった時代。
むかしむかし、戦国時代になる前、各地には『守護』と呼ばれる職があって、『守護』がその土地の警固や治安維持をしていた。
その当時、熊本県は『肥後』と呼ばれていて、『菊地氏』という一族が肥後の守護を担っていた。西南戦争にて熊本城へ攻め入った西郷隆盛も、菊地一族の子孫と言われている。この菊地一族の中から出てきたのが、最初に宇土城に入ったとされる『菊地系宇土氏』。宇土に住んでいた菊地一族の一部が、住んでいた土地の名前から『宇土氏』と名乗りだしたらしい。
この宇土氏の中の『宇土為光』という人がものすごく野心に満ちた人だった。本人は菊地氏から養子で宇土氏になったのだが、きっと養子に来るまで諸々事情があり、恨みつらみがあったのだろう…。一族の母体である菊地本家に何度も果敢に挑み、勝ったり負けたり繰り返し、ついに守護職までゲットする。
下剋上で本家を倒した宇土為光だったが、対する菊地本家の当主・菊地能運は復讐に燃え、2年の準備期間の後に猛反撃に出る。迎え撃った為光は遂に敗北し、逃亡を試みたが拘束され、子供と孫と共に斬首された。
こうして最初の城主『菊地系宇土氏』は滅亡した。
そんなわけで、菊地氏の手に渡った宇土城。城為冬という人に託された。
城氏は菊地氏を長きにわたって支えてきた、菊地氏の右腕ともいわれる一族だった。そんな信頼を置く人物を据えるくらいなので、宇土城がいかに重要であったかお分かり頂けるだろうか…!
こうして城氏の城(紛らわしいね)となったが、宇土為光を倒した菊地能運が、なんと急死。宇土為光と戦った時の傷が癒えず、なんと23歳で亡くなったそうだ。『能運』という名前からして、40代くらいの巨漢だと思っていた。若かったんだね。かわいそうに。
その後、ボスを失った城為冬は力を失い、城氏は没落。宇土城を捨てて、元々いた国に帰ってしまった。城主がいなくなった宇土城は空っぽに。急に需要がなくなって、かわいそうな宇土城。
≪ 名和のお殿様と小袖餅 ≫
宇土城が空っぽになったのと同じ年、1504年、名和氏当主・名和顕忠というお殿様が宇土へやってきた。名和顕忠は、さっき出てきたの菊地系宇土氏『宇土為光』の娘婿。
名和氏は、ワケあって鳥取に島流しにされた村上源氏の子孫と言われていて、南北朝時代に活躍した一族。
名和氏の家紋は帆掛船。カッコいい。鳥取にいた頃に海運業で財を成したので、元から帆掛船の家紋を使っていたのだが、『船上山』という場所で天皇を守るべく戦い、活躍したので、天皇から改めて下賜されたという、ありがたい家紋。
その後、更にワケあって、お隣の八代城主になるのだが、また更にワケあって八代城を追われ、丁度その時に宇土城が空いたので、縁故もあるしということで、宇土城におさまった。
この名和氏に連なる宇土城主は『名和系宇土氏』と呼ばれ、この後80年間、宇土城を中心に肥後で活躍していく。
名和氏のお殿様は名前が似ていてめんどくさいので、一人だけ紹介する。
『名和の殿様』こと名和顕孝さんは、みんな社会の授業で見たことあるであろう『蒙古襲来絵詞』を所有していた人。モンゴルの人と戦うあの絵巻だ。後にこの絵巻は、娘さんの嫁入り道具として大矢野さんのところに持っていかれる。
そんなわけで名和の殿様・顕考さんのほっこりする話を一つご紹介する。
ある日、顕考さんがお忍びで城下を見物していたところ、とある茶屋にて、うまそうな白い餅を発見。「それ、うまそうじゃないか。ひとつくれよ。」といって、餅を箱に詰めていた娘から、ひとつ貰って食べる顕考さん。たいそう満足されたそうな。「あーうまかった。じゃあな。」と言って去ろうとする。いつもはお供がお金を払うので、お金払うという概念がなかった。
「あの、お、お代を・・・。」といって顕考さんを引き止める娘。目の前の人物が『名和の殿様』だとは気付いていない。一方引き止められて自分のうっかりに気付いた顕考さんだが、お金を持ち歩いていなかった。「すまぬ、後で払うから、これを持って城まで来なさい。」と言って、自分の着物の袖をちぎって、娘に渡して帰った。
着物の袖を渡された娘は、意味が分からずお口あんぐり。ところが、娘が貰った袖を見て、町人達はびっくり仰天。「これ、名和の殿様の家紋じゃないか!」(さっき話した帆掛船である。)
「なんてこった・・・殿にお代を請求するなんて!」「お前だけじゃなく、お母さんの命も取られるかもしれないぞ!」「ああ、えらいこっちゃ・・・!」と町人がオロオロ話すので、娘はとっても不安になった。しかし、来いと言われたのだから、行かねばならぬ。勇気を出して城に向かった。
お城に着き、お殿様に謁見する娘。「知らなかったとはいえ、ご無礼をどうぞお許し下さい・・・!」「どうか、お母さんの命だけは助けて下さい・・・!」自分の命を顧みず、一生懸命お母さんの命を乞う、孝行な娘である。
ただ餅のお代を払いたかっただけの顕考さんは、娘の発言にびっくり。「なんて親孝行な娘だ、偉いのう。褒美をやろう!」と言って、餅代以上の褒美を持たせて、娘を家に帰した。
以来、この孝行娘の話が話題となり、この娘と母親が作る餅は『小袖餅』と呼ばれ、宇土の名物となった。ちなみに今でも売っていて、とてもおいしいが、日保ちしないのでお土産には向かないかも。持って帰れなくて残念。
≪ さよなら、名和のお殿様 ≫
そんな逸話が後世まで残るくらいだから、人望もあったと思われる、名和の殿様・顕考さん。しかし、その治世に終止符が打たれる。
当時九州では、薩摩の島津氏(篤姫で有名だね)と肥前の大友氏(大友宗麟というキリシタン大名)が勢力争いをしていた。大友氏がいる肥前はすぐ近くなので、宇土もしっかり巻き込まれた。
当時の島津氏はそれはもう強く、遠く大阪の豊臣秀吉にも盾突くほどだったので、名和顕考さんは島津氏に降伏した。名和氏は島津氏の配下に入り、島津軍として戦うことになる。
その後島津氏は大友氏をどんどん攻め、弱り果てて万事に窮した大友氏は、遠く大阪の豊臣秀吉に、助けてくれと嘆願した。秀吉は当時関白(天皇の補佐)だったので、大友氏の嘆願を受け取ると、天皇の名のもとに停戦命令の書状を作成し、島津氏に送った。島津氏はこれに従わないばかりか、大阪に兵を向けたので、いよいよ秀吉は兵を集めて九州平定に乗り出した。
そういうわけで、島津氏の下についた名和氏の宇土城へも秀吉軍団がやってくる。顕考さんは「降伏すれば、その土地をそのまま治めることを許すよ。」という秀吉の言葉を受け、早々に降伏。秀吉軍に鞍替えした。世渡りが上手。
と、なると、宇土城は秀吉方ということで、宇土城を落とされないように、秀吉軍の守備係がやってくる。この役割を任ぜられたのは、なんと加藤清正!宇土城は加藤清正によって、島津軍から守られた。そして宇土城防衛の功績が認められて、後に加藤清正は熊本城主になる。因果。
このように上手に渡り歩きながら、宇土を守ってきた名和の殿様・顕考さん。これからも宇土を守っていくのだろうと思いきや、同じ年、事件が起きる。
九州平定後、『佐々成政』という人に肥後が任された。『ササ ナリマサ』じゃない。『サッサ ナリマサ』である。リズミカル。佐々成政は名前の通り、サッサと統治を進めたかったらしい。肥後に入るやいなや、『太閤検地』を始めた。太閤検地とは、秀吉が作った基準を基に、土地を評価することを指す。
自分も肥後出身だから言えるのだけれど、肥後は頑固で言うことを聞かない人が多い地域だと思う。そういう県民性を表すために『肥後もっこす』という言葉があるくらいだ。「急に来て、威張り散らして、何様のつもりか!」ということで、肥後の人々が一斉に蜂起した。これを『肥後の国人一揆』という。
佐々成政は、当時病気を患っていたために、統治を急いだという経緯もあったらしく、この肥後の国人一揆を自力で収めることが出来なかった。よって、騒動はどんどん大きくなる。秀吉はこの騒動が他の地域に広がることを恐れて、たくさんの兵を向かわせて一気に鎮圧を図る。
肥後の国人一揆の最中、秀吉方の名和顕考さんは、自身も肥後の国人だからなのだろう、中立の立場をとることにした。反抗の意思があると誤解を受けたらやばい・・・ということで、「反抗しないです!」と大阪まで弁明に向かった。その間、城を開けては危ないので、弟の顕輝に城を任せたのだが、この人がやらかしてしまう。
顕考さん留守の間に宇土城を訪れる秀吉軍。「城を開けなさい!」という言葉に、弟の顕輝は「嫌だ。」と言った。彼も肥後もっこすだったのか・・・。
これにより、秀吉軍は宇土城を討伐、名和系宇土氏の系譜は、弟・顕輝の討死をもってピリオドを打たれた。ここで宇土古城の話はおしまいである。
一方の名和顕考さんはやっぱり賢い人なので、弟がこれだけ粗相をしても、命を取られずに済まされた。この後宇土に帰され、その後は筑前(福岡)の武将・小早川氏の家来となり、その後も上手く生き残った。おかげで帆掛船の家紋は、途絶えることなく現在まで引き継がれている。
さよなら名和氏!どうなる宇土城!
ということで、近代宇土城編に続く!