お城探訪記

お城に赴き、お城を語るブログ

鎌倉 / 神奈川県

あれは去年の夏のある日のこと。

ちょっとゆっくり休みを確保できたので、遠出することにしました。

そんなにお金もないし、1日まるまる使えるかなくらいだったので、

良い感じの距離感である鎌倉へ行くことになったのですが、

一日あれば足りるっしょ~と思っていたのが、甘かった・・・。

夏への慕情を、鎌倉に込めてお送りします。

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≪ 鎌倉はお城? ≫

鎌倉といえば、鎌倉幕府
イイクニ作ろう、イイハコ作ろう、
どっちで覚えたかでジェネレーションギャップが見いだせると思う。

なにはともあれ「鎌倉幕府」の「鎌倉」ですもの、
立派なお城があるのだろう・・・と思いきや、
鎌倉には「○○城」と付く建築物はない

なぜかというと、土地そのものがお城みたいなものだから。

城って一体なんなの?wikipediaによると、

城(しろ)とは、敵に攻め込まれた際の防御拠点として設けられた建築物。戦闘拠点であるとともに、食糧や武器や資金の備蓄場所でもある。主要な城は指揮官の住居であり、政治や情報の拠点であった。純防衛用として山地に建築されることも多いが、街道や河川などの交通の要衝を抑え利用することも多い。

と、書かれている。

四方を海と山に囲まれた鎌倉という場所は、
イイクニにしろ、イイハコにしろ、
約150年に及ぶ鎌倉時代を支えた防御・戦闘拠点であった。
つまりは、天然の城であったと言っていいと思う。

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鶴岡八幡宮を中心に栄える ≫

「○○城」のない鎌倉。
中心となっていたのは、鶴岡八幡宮

鶴岡八幡宮は、
鎌倉幕府を開いた源頼朝さんのおじいさんが「勧請」して、
由比ガ浜に連れてきたお宮。

「勧請」とは、
神様の霊力を分けてもらって、
別の神社に宿すことを指す。
全国にある大概の神社は勧請によってつくられている。

鶴岡八幡宮は、
「源氏」の氏神様だった、
京都の石清水八幡宮から勧請した神社。

その石清水八幡宮は、
宇佐神宮という大分の神社から勧請しており、
この「宇佐神宮石清水八幡宮鶴岡八幡宮」から
更に勧請した神社は八幡神社と呼ばれる。

ちなみに、勧請しても後利益は変わらないとされている。

頼朝さんのおじいさんは頼義さんという人で、
前九年合戦という戦いで有名。

この戦いは安部氏という陸奥(岩手あたり)の豪族が、
朝廷から派遣された源頼義と戦う話なのだが、
これがなかなか切ない。

これは多賀城編か、
鳥海柵編を書くときのために取っておこう・・・。

頼義おじいちゃんは弓矢を打つのがとても上手で、
その腕前を認められて嫁と家をもらう。

そのもらった家が鎌倉にあったので、
頼義おじいちゃん一家は鎌倉に住んでいた。

頼義おじいちゃんは前九年合戦で勝利を収め、
ヒーローとなった。

その戦勝祈願をした石清水八幡宮は、
ありがたいなあということで、
自分の家の近くに石清水八幡宮を勧請し、
鶴岡八幡宮を建てた。

最初は由比が浜にあったが、
後に頼朝さんが今の場所に建てなおし、
現在に至る。

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≪ 源平池の呪い ≫

こうして鎌倉の中心に据えられた鶴岡八幡宮

境内には池があり、
橋が渡されていてとても美しいのだが、
この池にはちょっとした呪いがかけられている。

池が二分されていて、
片方には島が3つ、
片方には島が4つある。

これは、3つの方が「さん→産」
縁起の良い源氏の池、
4つの方が「し→死」で、
縁起の悪い平家の池とされ、
「源平池」と呼ばれている。

なんともおどろおどろしい工夫だなあと、
少しぞぞぞっとする。

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北条政子は怖い ≫

さっきの源平池の件、
指示したのは源頼朝の妻である北条政子

政子さんはかなり激情派
頼朝さんと結婚する時も大変だったのである。

そもそも政子さんは、
頼朝さんが島流しにされた先の伊豆において、
頼朝さんの監視役を任されていた、
北条時政の長女だった。

お父さんが仕事で京都へ行っている間に、
恋仲になってしまった。

お父さんはそれはもう大反対したが、
どうにかこうにか説得して、
結婚を許される。

苦労して結婚したという経緯もあり、
政子さんはとてつもなく嫉妬深かったらしい。

こんなエピソードがある。

政子さんが懐妊して産休している間に、
頼朝さんは亀の前さんという女性に惚れ込み、
近くに住ませて通っていた。

これを牧の方(お父さんの後妻)から聞いた政子さんは激怒して、
牧の方の父の牧宗親に頼んで、
亀の前さんの住む家を破壊させた。

これを知った頼朝さんも激怒して牧宗親のところへ行き、
宗親さんの髷を切り落としてしまった。

それを聞いた政子さんのお父さん、
北条時政も更に激怒し、
鎌倉に来ていた一族全員で伊豆に帰ってしまった。

これだけの騒ぎになっても政子さんの怒りは収まらず、
亀の前を住まわせていた伏見広綱さん島流しにしてしまった。

 

この時代、一夫多妻が当たり前だったので、
嫁に憚らずに他の女性のところへ通う旦那さんが主流だった。
(現代では即炎上案件だけれど・・・)

しかしこの事件以降、頼朝さんは、
他の女性の元へ通う際は、
政子さんにばれることを恐れて、
細心の注意を払うようになった。
(ただし通うのはやめなかったし、隠し子も作った。)

家臣や他家の武将も、
政子さんの怒りを買わないように、
娘が頼朝さんと通じる事態を避けるようになった。

政子さんはこのようなエピソードの数々から、
「怖い女」「ヤバい女」みたいな見方をされがちだが、
誰しもこういうヒステリックな部分をもっていないだろうか・・・?

また「嫉妬」という根源にあるのは、
「自信のなさ」であることは世の常であり、
言うなれば地方の豪族に過ぎない家柄出身の自分と、
源氏の貴重な生き残りである頼朝さんとの身分の差に、
政子さんも大層苦しんだという。

いつの時代も変わらないのは女心ですかな・・・?

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≪ 江戸と鎌倉 ≫

源頼朝が開いた鎌倉幕府
その後頼朝が急死し、息子が後を継ぐものの、
若さ故に信用ならぬということで、
諸々あって北条氏が後釜に入ることとなる。

その後諸々あって天皇家と争いながらも、
武力に勝る幕府側が権力を掌握し、
鎌倉の未来は安泰・・・と思いきや、
大事件が起きる。

そもそもなぜ幕府に武士が加勢するのか。
それは、源頼朝が武士の地位向上に大きく貢献したことと、
「御恩」と「奉公」という互恵関係によるものだった。

会社と同じような制度で、
働けば褒美がもらえるよ~という仕組み。
ただ、働くの度合いが違う・・・。
貰えるものも「土地」なので、
結構ビッグビジネス。

だけど、そんなハイリスクな仕事で
ハイリターンがなかったらどうしますか?

そうだ、転職だ。

土地なんて有限なものなので、
いずれぶち当たるであろうその時が、
ついに訪れる。

それが元寇
モンゴル帝国が攻めてきたわけである。
授業でやった覚えがあるのではなかろうか。

モンゴル帝国は無茶苦茶に強かったが、
神風に救われて大勝したという、
そんな話を聞いたと思う。

大勝したものの、
損害は激しいわ、
戦利品(土地)もないわ、
また来るかもということで
警備など対策の負担を強いられるわで、
元寇貧乏」のような状態の武士が続出。

借金をチャラにする永仁の徳政令を出し、
なんとか「御恩」と「奉公」の関係をつなぎとめるも、
武士の気持ちはだんだんと離れ、
幕府への支持は徐々に低下・・・。

そこに目を付けた後醍醐天皇が、
徐々に味方を増やして行き、
遂に挙兵・幕府を倒し、
中心地は京都に戻るのである。

中心地が江戸に移っても、
武士にとって鎌倉は聖地であった。

源頼朝が幕府を開いた場所だから!

しかし、鎌倉は狭すぎた
時が経つにつれて都市の在り方は変わり、
集まる人が増え、
広大な平野が必要になっていった。

だから太田道灌徳川家康も、
江戸という場所を選んだのだった。
聖地・鎌倉は、天然の要塞故に、
平らな土地が少なすぎる。

都が京都に移り、大阪に移り、江戸に移り、
その間鎌倉は地震津波に見舞われたこともあり、
表舞台に名前が出ることはなくなっていった。

こうして年月が経ったある日、
鎌倉が再度陽の目を見る時が訪れた。

そのきっかけとなったのは、
水戸黄門」でおなじみの徳川光圀さん。

光圀さんは日本の歴史に大変詳しく、
光圀さんの治める水戸藩は、
明治に至るまでのビッグプロジェクト「大日本史」で知られる。

ちなみに全国行脚のイメージが強い水戸黄門
実際には関東圏内しか行脚しておらず、
自主的に訪問したのは鎌倉だけだとか。

名君として人気だったことと、
水戸藩の歴史調査の功績が浸透していたことから、
水戸黄門漫遊記という物語のジャンルが発生したらしい。

その光圀さんの鎌倉旅行記『新編鎌倉志』が刊行され、
鎌倉の名所・旧跡が世に知られることとなり、
観光地としての今の鎌倉につながっていくわけですな。

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≪ まとめ ≫

随分と更新が遅れました・・・
お久しぶりです、皆さんお元気ですか?

この記事も書きっぱなしで放置していたようだ。
思ったよりしっかりまとめてから放置してて過去の自分が謎です。

鎌倉仏教とかまで話したかったけど随分長くなってるのでまたの機会に・・・

あれから随分お城を見たので、これからまたいくつか更新したいと思います。

終わり。

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