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お城探訪記

お城に赴き、お城を語るブログ

【 第3回 宇土古城 / 熊本県 】

GW、久々に帰省で熊本に帰りました!

というわけで、今回は私の故郷・熊本県宇土市のお城をご紹介しましょう。

(ここから長いので前置き最短で)

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≪ 「宇土」とは? ≫

宇土という名前は、はるか昔の750年、正倉院の文書にて記載されており、歴史の長ーい地名。宇土半島というゾーンが昔『島』だったので、『浮土』と記載したのが始まりらしい。

長崎にも宇土町』があって、そちらの『宇土』は『長く細い谷』という意味で名前がついたらしく、この長崎の宇土町と同じ由来なのではないか、という説もある。

そういうわけで歴史ある街なので、石器やら、土器やら、骨やら、墓やら、色々なものが発掘される場所なのだが、お城のブログなので、お城の話しかしない。

宇土ってどこ?」と思っている方が大半だと思う。もしかして『天草』の方がメジャーかもしれない。天草四郎の『天草』はまあまあ近い、いや、近くないかも。位置関係的にはこんな感じ。

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宇土氏の時代から始まる ≫

宇土城』は実はふたつある。古い方新しい方。古い方を宇土古城』と呼ぶ。

宇土古城』ができたのは、1048年、平安時代の中期。前回の江戸城編でふれた平将門さん』が活躍したころと同時期で、身内同士の争いが多かった時代。

最初に宇土城に入ったのは『菊地氏系宇土氏』とされている。

むかしむかし、戦国時代になる前、各地には『守護』と呼ばれる職があって、『守護』がその土地の警固や治安維持をしていた。

その当時、熊本県『肥後』と呼ばれていて、『菊地氏』という一族が肥後の守護を担っていた。西南戦争にて熊本城へ攻め入った西郷隆盛も、菊地一族の子孫と言われている。この菊地一族の中から出てきたのが、最初に宇土城に入ったとされる『菊地系宇土氏』宇土に住んでいた菊地一族の一部が、住んでいた土地の名前から宇土氏』と名乗りだしたらしい。

この宇土氏の中の宇土為光』という人がものすごく野心に満ちた人だった。本人は菊地氏から養子で宇土氏になったのだが、きっと養子に来るまで諸々事情があり、恨みつらみがあったのだろう…。一族の母体である菊地本家に何度も果敢に挑み、勝ったり負けたり繰り返し、ついに守護職までゲットする。

下剋上で本家を倒した宇土為光だったが、対する菊地本家の当主・菊地能運は復讐に燃え、2年の準備期間の後に猛反撃に出る。迎え撃った為光は遂に敗北し、逃亡を試みたが拘束され、子供と孫と共に斬首された。

こうして最初の城主『菊地系宇土氏』は滅亡した。

そんなわけで、菊地氏の手に渡った宇土城。城為冬という人に託された。

城氏菊地氏を長きにわたって支えてきた、菊地氏の右腕ともいわれる一族だった。そんな信頼を置く人物を据えるくらいなので、宇土城がいかに重要であったかお分かり頂けるだろうか…!

こうして城氏の城(紛らわしいね)となったが、宇土為光を倒した菊地能運が、なんと急死。宇土為光と戦った時の傷が癒えず、なんと23歳で亡くなったそうだ。『能運』という名前からして、40代くらいの巨漢だと思っていた。若かったんだね。かわいそうに。

その後、ボスを失った城為冬は力を失い、城氏は没落。宇土城を捨てて、元々いた国に帰ってしまった。城主がいなくなった宇土城は空っぽに。急に需要がなくなって、かわいそうな宇土城。

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≪ 名和のお殿様と小袖餅 ≫

宇土城が空っぽになったのと同じ年、1504年、名和氏当主・名和顕忠というお殿様が宇土へやってきた。名和顕忠は、さっき出てきたの菊地系宇土宇土為光』の娘婿

 名和氏は、ワケあって鳥取に島流しにされた村上源氏の子孫と言われていて、南北朝時代に活躍した一族。

名和氏の家紋は帆掛船。カッコいい。鳥取にいた頃に海運業で財を成したので、元から帆掛船の家紋を使っていたのだが、『船上山』という場所で天皇を守るべく戦い、活躍したので、天皇から改めて下賜されたという、ありがたい家紋。

その後、更にワケあって、お隣の八代城主になるのだが、また更にワケあって八代城を追われ、丁度その時に宇土が空いたので、縁故もあるしということで、宇土城におさまった。

この名和氏に連なる宇土城主は『名和系宇土氏』と呼ばれ、この後80年間宇土城を中心に肥後で活躍していく。

名和氏のお殿様は名前が似ていてめんどくさいので、一人だけ紹介する。

『名和の殿様』こと名和顕孝さんは、みんな社会の授業で見たことあるであろう蒙古襲来絵詞を所有していた人。モンゴルの人と戦うあの絵巻だ。後にこの絵巻は、娘さんの嫁入り道具として大矢野さんのところに持っていかれる。

そんなわけで名和の殿様・顕考さんのほっこりする話を一つご紹介する。

ある日、顕考さんがお忍びで城下を見物していたところ、とある茶屋にて、うまそうな白い餅を発見。「それ、うまそうじゃないか。ひとつくれよ。」といって、餅を箱に詰めていた娘から、ひとつ貰って食べる顕考さん。たいそう満足されたそうな。「あーうまかった。じゃあな。」と言って去ろうとする。いつもはお供がお金を払うので、お金払うという概念がなかった。

「あの、お、お代を・・・。」といって顕考さんを引き止める娘。目の前の人物が『名和の殿様』だとは気付いていない。一方引き止められて自分のうっかりに気付いた顕考さんだが、お金を持ち歩いていなかった。「すまぬ、後で払うから、これを持って城まで来なさい。」と言って、自分の着物の袖をちぎって、娘に渡して帰った。

着物の袖を渡された娘は、意味が分からずお口あんぐり。ところが、娘が貰った袖を見て、町人達はびっくり仰天。「これ、名和の殿様の家紋じゃないか!」(さっき話した帆掛船である。)

「なんてこった・・・殿にお代を請求するなんて!」「お前だけじゃなく、お母さんの命も取られるかもしれないぞ!」「ああ、えらいこっちゃ・・・!」と町人がオロオロ話すので、娘はとっても不安になった。しかし、来いと言われたのだから、行かねばならぬ。勇気を出して城に向かった。

お城に着き、お殿様に謁見する娘。「知らなかったとはいえ、ご無礼をどうぞお許し下さい・・・!」「どうか、お母さんの命だけは助けて下さい・・・!」自分の命を顧みず、一生懸命お母さんの命を乞う、孝行な娘である。

ただ餅のお代を払いたかっただけの顕考さんは、娘の発言にびっくり。「なんて親孝行な娘だ、偉いのう。褒美をやろう!」と言って、餅代以上の褒美を持たせて、娘を家に帰した。

以来、この孝行娘の話が話題となり、この娘と母親が作る餅は『小袖餅』と呼ばれ、宇土の名物となった。ちなみに今でも売っていて、とてもおいしいが、日保ちしないのでお土産には向かないかも。持って帰れなくて残念。

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≪ さよなら、名和のお殿様 ≫

そんな逸話が後世まで残るくらいだから、人望もあったと思われる、名和の殿様・顕考さん。しかし、その治世に終止符が打たれる。

当時九州では、薩摩の島津氏篤姫で有名だね)と肥前の大友氏大友宗麟というキリシタン大名)が勢力争いをしていた。大友氏がいる肥前はすぐ近くなので、宇土もしっかり巻き込まれた。

当時の島津氏はそれはもう強く、遠く大阪の豊臣秀吉にも盾突くほどだったので、名和顕考さんは島津氏に降伏した。名和氏は島津氏の配下に入り、島津軍として戦うことになる。

その後島津氏は大友氏をどんどん攻め、弱り果てて万事に窮した大友氏は、遠く大阪の豊臣秀吉に、助けてくれと嘆願した。秀吉は当時関白天皇の補佐)だったので、大友氏の嘆願を受け取ると、天皇の名のもとに停戦命令の書状を作成し、島津氏に送った。島津氏はこれに従わないばかりか、大阪に兵を向けたので、いよいよ秀吉は兵を集めて九州平定に乗り出した。

そういうわけで、島津氏の下についた名和氏の宇土へも秀吉軍団がやってくる。顕考さんは「降伏すれば、その土地をそのまま治めることを許すよ。」という秀吉の言葉を受け、早々に降伏。秀吉軍に鞍替えした。世渡りが上手。

と、なると、宇土城は秀吉方ということで、宇土城を落とされないように、秀吉軍の守備係がやってくる。この役割を任ぜられたのは、なんと加藤清正宇土城は加藤清正によって、島津軍から守られた。そして宇土城防衛の功績が認められて、後に加藤清正熊本城主になる。因果。

このように上手に渡り歩きながら、宇土を守ってきた名和の殿様・顕考さん。これからも宇土を守っていくのだろうと思いきや、同じ年、事件が起きる。

九州平定後、佐々成政という人に肥後が任された。『ササ ナリマサ』じゃない。『サッサ ナリマサ』である。リズミカル。佐々成政は名前の通り、サッサと統治を進めたかったらしい。肥後に入るやいなや、太閤検地を始めた。太閤検地とは、秀吉が作った基準を基に、土地を評価することを指す。

自分も肥後出身だから言えるのだけれど、肥後は頑固で言うことを聞かない人が多い地域だと思う。そういう県民性を表すために肥後もっこすという言葉があるくらいだ。「急に来て、威張り散らして、何様のつもりか!」ということで、肥後の人々が一斉に蜂起した。これを『肥後の国人一揆という。

佐々成政は、当時病気を患っていたために、統治を急いだという経緯もあったらしく、この肥後の国人一揆を自力で収めることが出来なかった。よって、騒動はどんどん大きくなる。秀吉はこの騒動が他の地域に広がることを恐れて、たくさんの兵を向かわせて一気に鎮圧を図る。

肥後の国人一揆の最中、秀吉方の名和顕考さんは、自身も肥後の国人だからなのだろう、中立の立場をとることにした。反抗の意思があると誤解を受けたらやばい・・・ということで、「反抗しないです!」と大阪まで弁明に向かった。その間、城を開けては危ないので、弟の顕輝に城を任せたのだが、この人がやらかしてしまう。

顕考さん留守の間に宇土城を訪れる秀吉軍。「城を開けなさい!」という言葉に、弟の顕輝は「嫌だ。」と言った。彼も肥後もっこすだったのか・・・。

これにより、秀吉軍は宇土城を討伐名和系宇土の系譜は、弟・顕輝の討死をもってピリオドを打たれた。ここで宇土古城の話はおしまいである。

一方の名和顕考さんはやっぱり賢い人なので、弟がこれだけ粗相をしても、命を取られずに済まされた。この後宇土に帰され、その後は筑前(福岡)の武将・小早川氏の家来となり、その後も上手く生き残った。おかげで帆掛船の家紋は、途絶えることなく現在まで引き継がれている。

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さよなら名和氏!どうなる宇土城!

ということで、近代宇土城編に続く!