江戸城 / 東京都
ちょうど桜が綺麗に咲いているかなという様子見を兼ねて、今回は最も近場の江戸城へ。
江戸城といえば徳川家ということで、私にとってはあまり好ましくないお城でしたが(一国一城令を出したから)、行って回って調べてみると、なかなかにロマンのあるお城でした。
≪ 平将門の首塚 ≫
江戸城は非常に大きい上に、電車の便もよく、駅がいくつもあるので、どこから回ろうかと迷う。とはいえ、まずは大手門からでしょう~と地図を見てみると、おやおや!平将門の首塚がある!
平将門の首塚と言えば、祟りがあるで有名・・・。怖いから調べてから行こう・・・と調べてみると、どうやら江戸城を散策するときは、必ず平将門さんの首塚に、「これから江戸城を散策致します。すみません。頑張ります。」とお祈りをしないといけないらしい。そうしないと、「お前、俺をコケにしてんのか!」とお怒りを買ってしまうかもしれないとか・・・。
平将門さんは戦国時代よりもずっと昔のお方で、平安時代中期の豪族。皆様ご存じ「源氏と平家」の「平家」の先祖で、桓武天皇の五世というスーパー家柄の良いお方。16歳の時に上京し、藤原さんのお宅で警固に励んでいた。それからどんどん力をつけ、ついには朝廷(この時は藤原氏)に物申せるまでの実力者に成長。すると、平将門さんの叔父さん達が、あの手この手で領土を奪おうとしてくる。そして起きたのが「平将門の乱」。
平将門さんは叔父さん達を次々と倒し、ぐんぐんと関東一円を支配。意図せず朝廷に盾突くことになってしまい、ならば仕方あるまい!と、「新皇」を名乗って関東を独自に治めた。しかしそれも束の間、その話を聞きつけた朝廷は4000人の兵を送り、対する平将門さんの兵力は1000人足らずだったため、遂に打ち取られてしまう。
ちなみに、この時平将門さんを打ち取ったのは、前回行ってきた宇都宮城の初代城主・藤原宗円の一代前の藤原秀郷で、その時に使ったのは宇都宮二荒山神社で授かった霊剣だったとされている。やはり二荒山神社パワー恐るべし。
平将門さんはその後「獄門」の刑に処される。「打ち首獄門」の「獄門」、つまり、首を切って街中に晒すことを指す。なんとこの平将門さんが、歴史上初めての「獄門」なのだそう。
首を切って晒したものの、平将門さんの首は何日経っても腐らず、「俺の切られた五体はどこだ!持って来い!揃ったらまた戦えるから尋常に勝負しろ!」と叫び続けたらしい。怖い・・・。果ては首だけで飛んで、体を探しに行ってしまったらしい。その時、街は暗雲が立ち込め、雷鳴が轟き、恐怖に打ち震えた民衆は、平将門さんの怨念を鎮めるべく、首塚を立てたそうな。
関東近辺にいくつか首塚があって、大手門の前にあるのはその中の一つらしい。
この首塚、過去に震災やら人災やらで何度か潰されそうになったのだが、その度に恐ろしいことが起こり、その度に修復され続けている。大蔵省の役人が10人近く原因不明の死を遂げた事案もある・・・。足を向けて寝れないね。
ところで、「江戸城の正門である大手門の前に『首塚』だなんて、物騒だなあ。別のところにすれば良かったのに。」と思われる人もいるかもしれないが、関東の王の城である江戸城にとって、関東の王のパイオニア・平将門さんは神様に等しい。故に、わざわざ大手門を平将門さんの首塚の前にしたのだそう。
まずい、平将門さんについて書きすぎた。
≪ 太田道灌について ≫
平将門さんにお参りをしてから、早速大手門へ。緊張した・・・。さて、大手門はいわゆる正門。正々堂々入りたい人は、大手門から正面突破しよう。
ところで江戸城を作った人は、徳川家康ではない。太田道灌。名前を聞いたことのない人がほとんどだと思う。
太田道灌は、平将門の首が大手町まで飛んできた後の、室町時代後期の人。元々は資長さんだったが、仏門に入ったので「道灌(どうかん)」というカッコいい名前になった。
由緒正しい上杉家の家来で、お家の繁栄のために一所懸命に尽力したのに、めちゃくちゃ頭が良くて、和歌の才能もあり、戦争も上手く、人心を掴むのも上手だったので、主君に嫉妬されて暗殺されてしまった。かわいそう・・・。
そんな太田道灌が関東の防衛のために作ったのが、江戸城。当時は品川あたりがまだ海だったそうで、その海を道灌が航行していた時、「このしろ」というお魚が船に踊り入ったことを「吉兆だ!」として、江戸城を築城したらしい。
太田道灌は平将門さんを尊敬していて、この当時から江戸城の北西にて、平将門さんを神として祀っていた。それが、築土神社。
ちなみに太田道灌が作った初期の江戸城の名残は、今も「道灌濠」として残っているらしいが、皇居の中なので一般には公開されていない。
≪ 家康が入ってからの江戸城 ≫
道灌亡き後、鎌倉への航行の要所として活躍した江戸城だったが、戦国時代になると徐々に荒廃していく。そこへ、豊臣秀吉から派遣された、徳川家康がやってきた。
家康がやってきた当初は、日比谷の方は海で、神田の方は山だった。平地は海水のために使い物にならず、ひとまずはということで、神田山を崩して、その崩した土で日比谷入り江を埋め立てた。以下のサイトにて、当時の地形を見ることが出来る。
東京港の歴史(歴史紙芝居)|国土交通省関東地方整備局 東京港湾事務所
想像つくだろうか。日比谷が海!神田が山!崩した土で土地が作れるくらいだから、結構なサイズの山だったのではないだろうか。当時は「環境破壊だ!」とかいう人はいなかったのだろうか。たくさんのたぬきが行き場を失っただろう・・・だから家康は、たぬき顔になってしまったんだろうか・・・。
ところで、荒廃していたこの江戸城周辺、疫病が流行り、天変地異が頻発し、人々はこれを平将門さんの呪いだと忌み恐れていた。そこへやってきた旅のお坊さんがその様子をみて、将門さんを手厚くお慰めし、神田明神を建てたらしい。
家康はこの江戸の地に来て、平将門さんの祟りを知り、「これは利用せねば。」と思ったらしい。そして、平将門さんの信仰していた北斗七星の形に神社を配置し、このパワーを江戸城の繁栄に使わせてもらえるように工夫したらしい。
余談だが、スカイツリーは皇居から鬼門の位置にあり、反対の裏鬼門の位置には東京タワーがある。この二つのタワーが、家康の作った北斗七星を分断してしまうので、やばい、という都市伝説がある。
関ヶ原の合戦前、この神田明神で戦勝祈願をした家康はその後、神田祭の日に大勝利を収めたそうな。以来徳川家は欠かさず神田明神に参拝したらしい。
≪ 桔梗門と桔梗紋≫
そんなわけで、江戸幕府の時代。家康は各国の武将の経済力を奪うために、遠方から石やら木やらを江戸まで持ってこさせ、江戸城の拡張整備に携わらせた。各武将それぞれ持ち場が決まっていたので、皇居をぐるぐる回ると、石垣の形が微妙に違ったり、組み方が違ったり、個性が見受けられて面白かった。この中に加藤清正ゾーンもあるかなあ・・・と思ってみていたら、「桔梗門」なるものが!
「桔梗と言えば加藤清正の用いた桔梗紋」と思って調べたのだけど、桔梗紋は思っていたより深かった。ここで出てきた「桔梗」は、どうやら太田家の家紋らしい。
「桔梗」は「木」を外すと「更に吉」と書くので縁起が良いとされていた。最初に使ったのは「土岐氏」という一族で、後の武将は「自分は土岐氏の血筋だ」というのを示したいがために桔梗紋を使ったらしい。その中で有名なのは「明智家」。水色の桔梗紋は珍しく、かの織田信長もこの家紋を羨んだと言われているが、その信長を明智光秀が討ち取ってしまったので「逆賊の家紋」としてのイメージがついた。
「土岐」という名前の人凄い説が自分の中にあったので、なんか納得した。
≪ 富士見櫓が天守 ≫
江戸城周りをうろうろしていると、遠くに3階建ての櫓を発見。「3階建て!天守的な!」と思いiPhoneのシャッターを切ったが、逆光でうまく撮れなかった。
この三階建ての建物が1659年に再建された富士見櫓で、その下の石垣はなんと我らが加藤清正作だった。どおりで綺麗な石垣だと思ったら・・・!近くで見たかった・・・!
江戸城の天守閣は、実は明暦の大火というめちゃくちゃ大規模な火災で燃えてしまい、それから再建していない。その後天守の代わりを務めたのが、この富士見櫓!天守の再建をしなかったのは、街の復興を優先したかららしい。ちょっといい話じゃないか。
この後、「かの江戸城に天守がないのに、うちが天守持ってるのは忍びない・・・(反感買いそうだし)」ということで、諸国の大名は「天守」を「御三階」と呼ぶようにしたり、大きい天守を無くして二階建ての建物に作り替えたりした。これで天守を失った城も多いので、悲しみ。
この奥に小さく見えるのが富士見櫓。
≪ 微妙な違いを見出しながら歩く ≫
てくてく歩いていくと、辿り着くのが桜田門。井伊直弼が暗殺された場所!江戸城で最も有名なスポットではないだろうか。他の門に比べて、結構小さかった。こっそり入ろうとしたのに見つかって、殺されちゃったんだろうなあ。ううむ・・・。なんて感慨に耽って眺めた。井伊直虎の子孫だよね、井伊直弼。
音楽好きな人なら知っているであろう『日本武道館』、そこに入る前に通るのは『田安門』。桜田門より全然大きい。江戸城の規模感が伝わる、国の重要文化財。知らずに通ってる人もいるのでは!
江戸城には主要な門が57もある。皇居を回れば門に当たる。どれも名前がついていて、その名前の由来を調べながら歩くのも楽しい。
また、皇居周りをぐるりと囲む石垣も、よく見ると積み方が違ったり、使っている石が違ったりして面白い。ちなみに私は石垣が一番好き。穴太衆の末裔さんにいつかお会いしてみたい。
≪ 桜の名所、千鳥ヶ淵 ≫
大手町からぐんぐん歩くと、左手に国会議事堂、最高裁判所、イギリス大使館などを通り過ぎて、石垣の真横を歩く道にたどり着く。この道が北の丸公園へと続く。ここまで来ると、外はもう真っ暗になっていたが、河津桜がライトに照らされて綺麗だった。
ぐんぐん歩いて武道館を横切り、田安門を抜けると、お花見の名所・千鳥ヶ淵に到着!
お昼に来るとめちゃ混むので、大手町スタートの千鳥ヶ淵フィニッシュで夜桜見物という行程にしたのだけれど、夜でもなかなかに混んでいた。
咲き具合は4/2時点で5分咲きといったところ。満開まではもう少しかかりそうだった。それでも十分綺麗だったけれど!
桜と言えば江戸の華というイメージがあるけど、この桜が植えられたのは明治の頃で、江戸時代にはなかった光景らしい。
更にここから30分ほど頑張って歩くと神田明神があるので、平将門さんに始まり平将門さんに終わるツアーにしたかったけれど、寒くて断念。また別日に行こう・・・。
≪ まとめ ≫
というわけで私の江戸城ツアーはあっちこっち寄り道をしながら3時間で終了。半周しかできなかったが、我ながら良いルートだった。皇居一周は走って1時間半くらいだと思われる。
江戸城は徳川の城だと思ってたから、あまり好きじゃなかったけど、調べてみたら歴代関東の王が意思を託してきた城だということが分かった。ロマン・・・。あと都市伝説が満載。平将門さんをめぐるエトセトラが、江戸城の神髄だった。
関わっている人物が多いから、芋づる式に知識も増えて、とても面白かった。直近で行ってきた宇都宮氏の先祖が出てきたのはビックリした。
日本酒情報館とか、靖国神社とか、近隣に色々面白いスポットもあるので、散策・お花見がてら、是非江戸城に行ってみてほしい。あ、首を切られても生きられるということで、サラリーマンの参拝者が多いらしい、平将門さんの首塚。
ちなみに、大手門近くの日比谷公園にある松本楼のオムレツライス、オススメ!
さて、次はどこに行こうかな・・・!