お城探訪記

お城に赴き、お城を語るブログ

鎌倉 / 神奈川県

あれは去年の夏のある日のこと。

ちょっとゆっくり休みを確保できたので、遠出することにしました。

そんなにお金もないし、1日まるまる使えるかなくらいだったので、

良い感じの距離感である鎌倉へ行くことになったのですが、

一日あれば足りるっしょ~と思っていたのが、甘かった・・・。

夏への慕情を、鎌倉に込めてお送りします。

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≪ 鎌倉はお城? ≫

鎌倉といえば、鎌倉幕府
イイクニ作ろう、イイハコ作ろう、
どっちで覚えたかでジェネレーションギャップが見いだせると思う。

なにはともあれ「鎌倉幕府」の「鎌倉」ですもの、
立派なお城があるのだろう・・・と思いきや、
鎌倉には「○○城」と付く建築物はない

なぜかというと、土地そのものがお城みたいなものだから。

城って一体なんなの?wikipediaによると、

城(しろ)とは、敵に攻め込まれた際の防御拠点として設けられた建築物。戦闘拠点であるとともに、食糧や武器や資金の備蓄場所でもある。主要な城は指揮官の住居であり、政治や情報の拠点であった。純防衛用として山地に建築されることも多いが、街道や河川などの交通の要衝を抑え利用することも多い。

と、書かれている。

四方を海と山に囲まれた鎌倉という場所は、
イイクニにしろ、イイハコにしろ、
約150年に及ぶ鎌倉時代を支えた防御・戦闘拠点であった。
つまりは、天然の城であったと言っていいと思う。

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鶴岡八幡宮を中心に栄える ≫

「○○城」のない鎌倉。
中心となっていたのは、鶴岡八幡宮

鶴岡八幡宮は、
鎌倉幕府を開いた源頼朝さんのおじいさんが「勧請」して、
由比ガ浜に連れてきたお宮。

「勧請」とは、
神様の霊力を分けてもらって、
別の神社に宿すことを指す。
全国にある大概の神社は勧請によってつくられている。

鶴岡八幡宮は、
「源氏」の氏神様だった、
京都の石清水八幡宮から勧請した神社。

その石清水八幡宮は、
宇佐神宮という大分の神社から勧請しており、
この「宇佐神宮石清水八幡宮鶴岡八幡宮」から
更に勧請した神社は八幡神社と呼ばれる。

ちなみに、勧請しても後利益は変わらないとされている。

頼朝さんのおじいさんは頼義さんという人で、
前九年合戦という戦いで有名。

この戦いは安部氏という陸奥(岩手あたり)の豪族が、
朝廷から派遣された源頼義と戦う話なのだが、
これがなかなか切ない。

これは多賀城編か、
鳥海柵編を書くときのために取っておこう・・・。

頼義おじいちゃんは弓矢を打つのがとても上手で、
その腕前を認められて嫁と家をもらう。

そのもらった家が鎌倉にあったので、
頼義おじいちゃん一家は鎌倉に住んでいた。

頼義おじいちゃんは前九年合戦で勝利を収め、
ヒーローとなった。

その戦勝祈願をした石清水八幡宮は、
ありがたいなあということで、
自分の家の近くに石清水八幡宮を勧請し、
鶴岡八幡宮を建てた。

最初は由比が浜にあったが、
後に頼朝さんが今の場所に建てなおし、
現在に至る。

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≪ 源平池の呪い ≫

こうして鎌倉の中心に据えられた鶴岡八幡宮

境内には池があり、
橋が渡されていてとても美しいのだが、
この池にはちょっとした呪いがかけられている。

池が二分されていて、
片方には島が3つ、
片方には島が4つある。

これは、3つの方が「さん→産」
縁起の良い源氏の池、
4つの方が「し→死」で、
縁起の悪い平家の池とされ、
「源平池」と呼ばれている。

なんともおどろおどろしい工夫だなあと、
少しぞぞぞっとする。

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北条政子は怖い ≫

さっきの源平池の件、
指示したのは源頼朝の妻である北条政子

政子さんはかなり激情派
頼朝さんと結婚する時も大変だったのである。

そもそも政子さんは、
頼朝さんが島流しにされた先の伊豆において、
頼朝さんの監視役を任されていた、
北条時政の長女だった。

お父さんが仕事で京都へ行っている間に、
恋仲になってしまった。

お父さんはそれはもう大反対したが、
どうにかこうにか説得して、
結婚を許される。

苦労して結婚したという経緯もあり、
政子さんはとてつもなく嫉妬深かったらしい。

こんなエピソードがある。

政子さんが懐妊して産休している間に、
頼朝さんは亀の前さんという女性に惚れ込み、
近くに住ませて通っていた。

これを牧の方(お父さんの後妻)から聞いた政子さんは激怒して、
牧の方の父の牧宗親に頼んで、
亀の前さんの住む家を破壊させた。

これを知った頼朝さんも激怒して牧宗親のところへ行き、
宗親さんの髷を切り落としてしまった。

それを聞いた政子さんのお父さん、
北条時政も更に激怒し、
鎌倉に来ていた一族全員で伊豆に帰ってしまった。

これだけの騒ぎになっても政子さんの怒りは収まらず、
亀の前を住まわせていた伏見広綱さん島流しにしてしまった。

 

この時代、一夫多妻が当たり前だったので、
嫁に憚らずに他の女性のところへ通う旦那さんが主流だった。
(現代では即炎上案件だけれど・・・)

しかしこの事件以降、頼朝さんは、
他の女性の元へ通う際は、
政子さんにばれることを恐れて、
細心の注意を払うようになった。
(ただし通うのはやめなかったし、隠し子も作った。)

家臣や他家の武将も、
政子さんの怒りを買わないように、
娘が頼朝さんと通じる事態を避けるようになった。

政子さんはこのようなエピソードの数々から、
「怖い女」「ヤバい女」みたいな見方をされがちだが、
誰しもこういうヒステリックな部分をもっていないだろうか・・・?

また「嫉妬」という根源にあるのは、
「自信のなさ」であることは世の常であり、
言うなれば地方の豪族に過ぎない家柄出身の自分と、
源氏の貴重な生き残りである頼朝さんとの身分の差に、
政子さんも大層苦しんだという。

いつの時代も変わらないのは女心ですかな・・・?

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≪ 江戸と鎌倉 ≫

源頼朝が開いた鎌倉幕府
その後頼朝が急死し、息子が後を継ぐものの、
若さ故に信用ならぬということで、
諸々あって北条氏が後釜に入ることとなる。

その後諸々あって天皇家と争いながらも、
武力に勝る幕府側が権力を掌握し、
鎌倉の未来は安泰・・・と思いきや、
大事件が起きる。

そもそもなぜ幕府に武士が加勢するのか。
それは、源頼朝が武士の地位向上に大きく貢献したことと、
「御恩」と「奉公」という互恵関係によるものだった。

会社と同じような制度で、
働けば褒美がもらえるよ~という仕組み。
ただ、働くの度合いが違う・・・。
貰えるものも「土地」なので、
結構ビッグビジネス。

だけど、そんなハイリスクな仕事で
ハイリターンがなかったらどうしますか?

そうだ、転職だ。

土地なんて有限なものなので、
いずれぶち当たるであろうその時が、
ついに訪れる。

それが元寇
モンゴル帝国が攻めてきたわけである。
授業でやった覚えがあるのではなかろうか。

モンゴル帝国は無茶苦茶に強かったが、
神風に救われて大勝したという、
そんな話を聞いたと思う。

大勝したものの、
損害は激しいわ、
戦利品(土地)もないわ、
また来るかもということで
警備など対策の負担を強いられるわで、
元寇貧乏」のような状態の武士が続出。

借金をチャラにする永仁の徳政令を出し、
なんとか「御恩」と「奉公」の関係をつなぎとめるも、
武士の気持ちはだんだんと離れ、
幕府への支持は徐々に低下・・・。

そこに目を付けた後醍醐天皇が、
徐々に味方を増やして行き、
遂に挙兵・幕府を倒し、
中心地は京都に戻るのである。

中心地が江戸に移っても、
武士にとって鎌倉は聖地であった。

源頼朝が幕府を開いた場所だから!

しかし、鎌倉は狭すぎた
時が経つにつれて都市の在り方は変わり、
集まる人が増え、
広大な平野が必要になっていった。

だから太田道灌徳川家康も、
江戸という場所を選んだのだった。
聖地・鎌倉は、天然の要塞故に、
平らな土地が少なすぎる。

都が京都に移り、大阪に移り、江戸に移り、
その間鎌倉は地震津波に見舞われたこともあり、
表舞台に名前が出ることはなくなっていった。

こうして年月が経ったある日、
鎌倉が再度陽の目を見る時が訪れた。

そのきっかけとなったのは、
水戸黄門」でおなじみの徳川光圀さん。

光圀さんは日本の歴史に大変詳しく、
光圀さんの治める水戸藩は、
明治に至るまでのビッグプロジェクト「大日本史」で知られる。

ちなみに全国行脚のイメージが強い水戸黄門
実際には関東圏内しか行脚しておらず、
自主的に訪問したのは鎌倉だけだとか。

名君として人気だったことと、
水戸藩の歴史調査の功績が浸透していたことから、
水戸黄門漫遊記という物語のジャンルが発生したらしい。

その光圀さんの鎌倉旅行記『新編鎌倉志』が刊行され、
鎌倉の名所・旧跡が世に知られることとなり、
観光地としての今の鎌倉につながっていくわけですな。

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≪ まとめ ≫

随分と更新が遅れました・・・
お久しぶりです、皆さんお元気ですか?

この記事も書きっぱなしで放置していたようだ。
思ったよりしっかりまとめてから放置してて過去の自分が謎です。

鎌倉仏教とかまで話したかったけど随分長くなってるのでまたの機会に・・・

あれから随分お城を見たので、これからまたいくつか更新したいと思います。

終わり。

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近世宇土城 / 熊本県

 【 第3回 宇土古城 / 熊本県 】の続きです。

前回までのお話

歴史ある街・宇土で繰り広げられる栄枯盛衰!

強い野心で下剋上を試みる宇土為光
迎え撃つは肥後の守り人・菊地能運
しれっと宇土城主に収まる名和系宇土
餅のお代も支払われ、円満解決もつかの間!
九州平定肥後の国人一揆など苦難の末…

名和氏80年の治世が遂に終わりを迎えた!
主を失った宇土城、次なる城主は…?

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≪ 商人出身キリシタン小西行長

名和顕考のいなくなった宇土城。

豊臣秀吉から派遣され、次に殿となったのは小西行長という人である。

小西行長さんは商人出身キリシタンという、ちょっと変わってる武将。大阪・堺の商人の家に生まれ、岡山の呉服問屋に養子に出された。商売で何度か顔を合わせていた宇喜多直家という武将が「こいつは光るものがある。」と行長さんの才能に目をつけ、家臣に抜擢され、武士に転身した。

その後、宇喜多家にて船奉行を務めた行長さん。宇喜多氏から大変重用され、織田信長に降伏する際には、宇喜多氏の使者として、当時はまだ羽柴だった秀吉のもとへ遣わされたらしい。その際に秀吉の目に留まり、重用されるようになったといわれている。

こうして秀吉に気に入られた行長さん。実はお父さんも秀吉に気に入られていて、小西隆佐という名前。なんだかシュッとしている。小西一家は全員キリスト教徒だったので、海外との貿易にアドバンテージがあった。小西家はこれを生かし、堺(大阪)を出入りする船の取締役を担うことで、織田・豊臣時代に成り上がったのだと言われている。

画像は宇土市マスコットキャラクター、うとん行長しゃん。

熊本弁で「宇土の行長さん」という意味。

可愛いけど、威厳の「い」の字もないので少々不安になる。

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宇土城・小西行長モデル ≫

小西行長さんは、さっき話したように、外国とのやりとりが得意だった。九州は南蛮貿易が盛んで、秀吉さんは南蛮貿易をしたいと考えていた。宇土は、長崎などの貿易拠点に目が届きやすい位置にある。

朝鮮出兵もこの時、既に想定されていた。行長さんは、宇喜多家時代から長きにわたり、船奉行として海上を取り仕切ってきた経験から、兵糧や武器を入手・供給するなどといった、船を使った後方支援が得意だった。そのため、朝鮮に近く、入海の地形を持つ宇土の特性をうまく活かせるだろう見込んで、秀吉は行長さんを宇土城主にした。

こうして宇土にやってきた行長さん。一旦は宇土古城に入るが、宇土古城は山の方にあり、城下町も狭かったので、海寄りに新しいお城を作ることにした。ということで、自分の領地と、お隣の『天草』という地域の有力者に協力を要請した。

ところがこの天草にいた『天草五人衆』という人達がまた肥後もっこす(熊本県の県民性・頑固を表す言葉)を発揮する。天草五人衆こと天草氏・志岐氏・大矢野氏(名和顕考の娘婿)・栖本氏・上津浦氏は、九州平定後に秀吉から「君たちはそのまま、そこにいて良いよ。」と所領を安堵されていたので、行長と自分たちは同レベルという認識だったらしい。「秀吉からの依頼なら受けるけど、お前個人の手伝いをする余裕なんてないよ。」という嘲りの返信を寄越してきた。こんなことを言われて黙っているわけにはいかない。行長さんは天草に兵を出した。

しかし流石は九州男児、地の利もあり、相手は強い。なかなか攻略することができない。行長さんは、肥後のもう半分を任されていた、加藤清正に応援を要請する。容赦ない猛将・加藤清正も加わって、天草五人衆は壊滅、行長は天草も治めることになった。

ということになっているが加藤清正、呼んでもいないのに勝手に来た説」というのもあって、ともかく両者が不仲になったきっかけは天草国人一揆らしい。有名な話だが、二人は仲が悪い。多分行長さんはB型で、清正さんがA型、だと思う。逆かもしれない。

そんなこんなで、やっと宇土城築城に取り掛かる。

 行長さんの宇土は、キリシタンであることもあり、南蛮様式を取り入れた、とてもかっこいいデザインだったらしい。九州で初めて石垣を持つ城となったのは近世宇土城だと言われている。鶴のように美しかったので『鶴城』と呼ばれていたらしく、現在、宇土城の麓にある学校には『鶴城中学』という名前がついている。

この他にも、麦島城隈庄城木山城矢部城愛藤寺城などの支城を併せて築城し、弟たちや一族の重臣を城主として配置した。

しかし、この後に待つ悲劇のために、宇土城に関する資料はほとんど残っていない。

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小西行長 vs 加藤清正

行長さんは、秀吉が亡くなるまでの間に大変重用され、宇土城下も賑わった。行長さんの治世が、宇土が最も栄えた時期ではないかなあ。

行長さんが来る前から、天草はキリスト教が多いところだったが、行長さんが手厚く保護したので、キリスト教徒が人口の2/3を占めるまでに増えた。これに連なり、海外との貿易も盛んになった。

 そうして肥後北半をまあるく治めていく行長さんであったが、肥後の南半分を所領とする加藤清正とは実に反りが合わず、領土の境界線を巡って喧嘩し続けた。犬猿の仲というやつである。多分、犬が清正公で、猿が行長さんだと思う。逆かもしれない。

「薬屋の息子の分際で!」「うるさい臆病者!」みたいな言い合いをしていた、だとか、子供の喧嘩のような、微笑ましいエピソードが多々あるが、当人たちは殺したいほど嫌いあっていたらしい。不仲はどんどんエスカレートしていく。

朝鮮出兵のエピソード。行長さんが朝鮮のリーダーに加藤清正がもうすぐ攻めてきますよ〜。」と戦略を漏洩して、清正の暗殺を企てたらしい。話し合いでまとめたい行長さんと、さっさと攻め落としたい清正では、方針が違いすぎる。食べものもない、敵は倒しても倒しても減らない、極限状態で精神的余裕がなくなると、本当に刺し違えたくなったりすることはある。

そんなこんなで2度目の朝鮮出兵が終わった後、秀吉が病により命を落とす。秀吉を失った家臣団は、武断派文治派という二派閥に分かれゆき、後に関ヶ原の合戦へとつながる。

秀吉が亡くなった後、それまで大人しくしていた徳川家康が、総取りに動き出す。

元々軋轢があった武断派文治派は、リーダーを失って更に溝を深めた。そこを利用したい家康は、石田三成を筆頭とした文治派が、豊臣家に反する一団であるというイメージ工作をしていく。徐々に豊臣家臣団に取り入り、石田三成と、三成に加担する大名をじわじわ陥れる家康。

「もう我慢の限界だ!」怒り心頭に達した三成は遂に挙兵し、豊臣家臣団は、三成を中心とした西軍と、家康を中心にした東軍に分かれた。小西行長さんは三成と親しかったので、西軍で参戦することになる。

 奮戦した三成率いる西軍だったが、事前に家康により工作されていた西軍側の裏切り多発により、みるみるうちに形成は不利に。大規模な戦であったにも関わらず、勝敗は半日で決してしまった。

この敗戦により、小西行長は捕縛され、さらし者にされた後、斬首された。

一方その頃、加藤清正は、家康から「自力で自分のものにできたら、肥後は全部君にあげるよ。」という書状をもらう。かねてより肥後一国を手中に収めることを狙っていた清正は、小西行長が合戦に出ており不在であるうちに、肥後北半の城を攻め落とし、自分の領地にしてしまった。

この時、行長さんに代わって城を守っていたのは、弟の小西隼人。敵方も認める程の采配で持ちこたえたが、関が原での西軍大敗の知らせを受けて降伏。「自分が腹を切るから、家臣全員の命を救ってほしい。」という条件で降伏し、切腹した。そのため、小西家家臣はこの後、清正に引き取られた。

憎きライバル・小西行長キリスト教だったこと、自身が熱烈な日蓮宗だったことから、加藤清正は領内の人々に対し、キリスト教の棄教を強いた。そして、これに従わなかった多くのキリスト教徒を弾圧、迫害した。

写真は熊本城の天守閣付近にある宇土。清正によって奪われた、宇土城の天守だと言われていたが、それは間違いであることが調査で判明した。宇土城攻略後、清正に引き取られた小西家家臣が、ここを任されたと言われている。

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小西行長の殉教 ≫

関が原の戦いにて劣勢となり、敗走を余儀なくされた小西行長さん。関が原にほど近い、伊吹山の中へ逃げた。その山中にて、林蔵主という庄屋に出会う。

行長さんは林蔵主に「私は肥後の領主の小西行長だ。私を捕まえて徳川家康に引き渡せば、あなたは褒美をもらえる。連れていきなさい。」と伝えた。これを聞いて林蔵主は「何言っているんですか、早くお逃げなさい。」と促したが、行長さんは「私はキリシタンなので、ここで終わりと覚悟しても、自殺をすることができない。連れて行ってくれ。」と答えたそうだ。林蔵主はその覚悟に驚きながら「分かった。」と言い、家康の本陣まで行長さんを連れて行った。

捕まった行長さんは、石田三成安国寺恵瓊(えけい。毛利輝元を西軍総大将に担ぎ出した人。)と共に、大阪・堺の市中を引き回された。行長さんにとっては生まれ故郷の堺。最期の時を前に、どんな心持ちで町を眺めたのだろう。そしてその2日後、京都の六条河原にて処刑される。

先に話したように、行長さんはキリシタンなので、処刑に際しても切腹はせず、斬首という方法を取られた。通例ならば浄土教の僧侶によってお経をいただくが、これも拒否し、ポルトガル王妃にもらった聖像を拝んだ後に首を討たれたと言われている。

切られた首はその後三条河原に晒されたが、行長さんの遺骸はその後、イエズス会というキリスト教を日本に布教した修道会(ザビエルでおなじみ)の人々に引き取られた後、『告解の秘蹟という、罪を神に許してもらう儀式を受け、キリスト教の方式で埋葬されたそうだが、どこに眠っているかは不明。

小西行長(洗礼名・アウグスティヌスが斬首された話は遠くローマまで伝わり、教皇クレメンス8世さえもその死を悼んだそうだ。ヴァチカンで法皇による追悼を受けた唯一の日本人だともいわれている。また、イタリア・ジェノバでは、行長さんの死から7年後、行長さんを主人公とする音楽劇(AGOSTINO TZVNICAMINDONO)が作られる。一方日本では敗戦武将として扱われ、印象の悪い話ばかりが残っていくことになる。

戦争があまり得意ではなく、人脈交渉術で世界に認められた小西行長さん。資料なども消されてしまったため、国内では未だ不明なことが多い。本当はもっと素敵な人だったんだろうになあと、ぼんやり想いを馳せる。

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≪ ジュリアおたあという女性 ≫

行長さんの死後、その親類一同は身柄を追われたが、その中で家康に見初められ、大奥に侍女として召し上げられた女性がいた。

その女性は朝鮮出兵の折、朝鮮から日本へ連れてこられ、小西家に猶子(養子よりルールがゆるい縁組)として引き取られたという、異色の経歴を持つ人物だった。キリスト教の洗礼を受け、ジュリアおたあという名前を名乗っているが、本名は不明。ジュリアおたあ、一回聞いたら忘れられない名前。

ジュリアおたあは、行長さんの正室・菊姫により教育を受け、小西家伝統の薬学の知識を特によく吸収したそうだ。行長さんも菊姫も、彼女を大事に育てたらしい。信心深い才女に成長した。その才気に家康はコロッといってしまい、侍女として側に置き、寵愛した。

他の小西家の人々と同じく、彼女のキリスト教への信仰は本当に強いものだった。昼は侍女として働き、夜は祈祷して聖書を読むという生活を続けた。彼女によってキリスト教信仰に導かれた者も多くいたらしい。

この頃キリスト教弾圧を始めた家康は、ジュリアおたあにもキリスト教を棄てるように迫るが、彼女はこれを断固として受け入れなかった。併せて、正式な側室にしてやるという家康のオファーにも難色を示し、これに怒った家康は、彼女を島流しにした。その後何度も「言うことを聞けば許してやるぞ。」と赦免をチラつかせた家康であったが、ジュリアおたあはこれに一切動じず、この後更に2度の島流しを受ける。なんという信心深さ。その後大阪の神父の援助を受けて島を脱出し、長崎に渡ったと言われているが、真相は定かではない。

ちなみに、サザンオールスターズ『夢に消えたジュリア』と言う曲があり、ジュリアおたあ伝説を思わせる歌詞なのだが、この曲はピンク・フロイド『夢に消えるジュリア』をもじって作った曲で、ジュリアおたあのことは、歌詞を書き終えてから知ったらしい。ソロでどうにかこうにかカバーしようかなあ・・・!


サザンオールスターズ -

 

 

 

≪ その後の宇土

 加藤清正によって攻め入られ、清正が治めることとなった宇土。この後、清正の隠居用に大改修されたが、すぐに加藤清正が病に倒れ、死去。その後、キリスト教徒による天草・島原の乱が起きた際、領民が城に立て篭もり手を焼いたという一件から、そのようなことが今後ないようにと、西国の城はことごとく壊された。併せて「今後一切ここに何も作るな!」という命令が出されたため、城跡はさら地となったまま、現在に至る。

しかし宇土は相変わらず要所だった。

細川ガラシャをご存じだろうか。関が原の合戦の前、西軍が東軍の妻子を人質に取ろうとした折、これを断固拒否するとして自害し、遺体が残らぬように屋敷ごと燃やしたことで有名な女性。「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ 」という辞世の句も有名。その夫の忠興さんは、豊後という地域を治めていた人で、関ヶ原の合戦での活躍に対する報酬に、豊前の一部も任され、九州の上の方40万石近くを仕切る大名となった。三男・忠利家督を譲ると、四男・立考が治める、宇土の近所の八代城(麦島城)に隠居した。この立考を溺愛していた忠興は、立考を藩主にしたいと熱望しており、八代城9万石を渡そうとしていたが、目前にして立考が亡くなり、叶わなかった。相当気落ちしてしまったのか、後を追うようにして忠興も亡くなり、立考の息子・宮松が残された。

当時の熊本藩2代目藩主・細川光尚は、まだ幼い宮松には任せられないということで、八代城主を筆頭家老(一番偉い家来)の松井興長に任せ、宇土宇土支藩として、宮松の領地にした。

この宮松は後に名前を細川行考に改め、初代宇土細川藩主となった。宇土城下町(城はないけど)の水質が悪いことを改善するため、という所にある水源から、水道を引いたことで知られている。ちなみに、この轟水源名水百選にラインナップされる名水で、江戸時代に引かれたこの水道は、今も現役で使用されている。

この後宇土細川藩11代続き、細川本家の当主を二人輩出する名家となったが、明治の廃藩置県熊本藩に合併された。細川家は明治以降も名家として続き、多くの偉人を輩出した。内閣総理大臣細川護煕氏も、宇土細川藩の血筋。

このように話題に事欠かない宇土だったが、支藩だったので城は築かれなかった。

現在の宇土はというと、清正が作り変えた石垣が少し残るばかり。本丸があった城山には公園ができており、小西行長の像が建てられている。この小西行長像、去年の大地震の後に見に行ったが、外壁がはがれていたものの、倒れずしっかりと建っていた。画像は地震後の行長像。

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≪ 余談・宇土市役所の話 ≫

城が無くなり、廃藩置県宇土藩が無くなってから何十年も経った1958年、一転二転三転を経て、宇土市が誕生した。

初代宇土市長は大和忠三氏。

人柄も良く、先見の明がある、名君だったそうだ。今でも帰省で宇土を訪れると、大和さんの話を聞くことがよくある。というのも、私の祖父は大和さんの運転手を長い間務めていたからだ。

産交バスの運転手時代に、大和市長の運転手にスカウトされたらしい。バスの運転手さんに声をかけるというのは、人柄を感じるエピソードだなあと思う。

大和さんの具体的な功績については、実は資料が全然見つからないのだが、このサイトで少し紹介されていた。

http://utpan.web.fc2.com/yamatotadami.html

2016年4月、熊本で大地震が起きた際、この崩れかけの建物を目にした人は多いと思う。

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この建物は、宇土市の市役所で、大和さんによって1965年に建てられた。つまり、この写真から51年前にできた建物ということ。そりゃ崩れるだろうなあ。

建設された当時は、それはそれはオシャレでモダンな建物だったらしい。

私の母は当時まだ小さかったが、宇土市宇土市役所といえば、子供ながらに自慢で、宇土市のシンボル的存在だったそうだ。『自慢の市役所』ってなかなか聞かない。よっぽど市民に愛されていたのだろう。最近までその姿を留めていたことにも納得がいく。いわば第三の宇土のような存在だったのではと思う。

今年のGWに訪れた際、その宇土市役所をはじめ、多くの建物が崩れ、空き地となっていた。宇土市役所前には公園があり、大和元市長の銅像が建っているが、その背中が大変寂しげに見えた。

歴史と伝統をたくさん残してきた宇土。失われたものは少なくないが、今を新風の吹き込むきっかけにして、また新しい時代の1ページを綴っていって欲しいなあとぼんやり思う。

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≪ まとめ ≫

さて、今回は故郷の宇土市にあるお城をフィーチャーしてみました。

長くなっちゃったなあ…!これでもかなり省いたんだけれど…!

九州内で獲ったり獲られたりがあるので、一つのお城だけで話をするのが難しかったです。九州人でひとくくりにしてしまう感覚は、ここからきているのかなあ。

いろんな話がありすぎて、つまみ食いみたいなブログになってしまいました。

書ききれなかったですが、ここに書いてない話も、馬門石の話とか、たくさんあるので、歴史と文化の街・宇土市、機会があれば是非訪れてみて欲しいです。

調べきれなかった話もちらほらあるので、見つけたらコメント欄に追記していこうと思います。皆さんも何か「これは違うと思う」とか「こんな話もあるよ」とか質問・感想などなど、お気軽にコメントして頂ければ幸いです。

さて、今回も最後にグルメレポ。
写真は熊本のラーメンチェーン・味千ラーメンのラーメン。
焦がしニンニクが特徴です。

実は東京にも1店舗だけ、池袋にあるらしい。行ってみたい。

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宇土古城 / 熊本県

GW、久々に帰省で熊本に帰りました!

というわけで、今回は私の故郷・熊本県宇土市のお城をご紹介しましょう。

(ここから長いので前置き最短で)

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≪ 「宇土」とは? ≫

宇土という名前は、はるか昔の750年、正倉院の文書にて記載されており、歴史の長ーい地名。宇土半島というゾーンが昔『島』だったので、『浮土』と記載したのが始まりらしい。

長崎にも宇土町』があって、そちらの『宇土』は『長く細い谷』という意味で名前がついたらしく、この長崎の宇土町と同じ由来なのではないか、という説もある。

そういうわけで歴史ある街なので、石器やら、土器やら、骨やら、墓やら、色々なものが発掘される場所なのだが、お城のブログなので、お城の話しかしない。

宇土ってどこ?」と思っている方が大半だと思う。もしかして『天草』の方がメジャーかもしれない。天草四郎の『天草』はまあまあ近い、いや、近くないかも。位置関係的にはこんな感じ。

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宇土氏の時代から始まる ≫

宇土城』は実はふたつある。古い方新しい方。古い方を宇土古城』と呼ぶ。

宇土古城』ができたのは、1048年、平安時代の中期。前回の江戸城編でふれた平将門さん』が活躍したころと同時期で、身内同士の争いが多かった時代。

最初に宇土城に入ったのは『菊地氏系宇土氏』とされている。

むかしむかし、戦国時代になる前、各地には『守護』と呼ばれる職があって、『守護』がその土地の警固や治安維持をしていた。

その当時、熊本県『肥後』と呼ばれていて、『菊地氏』という一族が肥後の守護を担っていた。西南戦争にて熊本城へ攻め入った西郷隆盛も、菊地一族の子孫と言われている。この菊地一族の中から出てきたのが、最初に宇土城に入ったとされる『菊地系宇土氏』宇土に住んでいた菊地一族の一部が、住んでいた土地の名前から宇土氏』と名乗りだしたらしい。

この宇土氏の中の宇土為光』という人がものすごく野心に満ちた人だった。本人は菊地氏から養子で宇土氏になったのだが、きっと養子に来るまで諸々事情があり、恨みつらみがあったのだろう…。一族の母体である菊地本家に何度も果敢に挑み、勝ったり負けたり繰り返し、ついに守護職までゲットする。

下剋上で本家を倒した宇土為光だったが、対する菊地本家の当主・菊地能運は復讐に燃え、2年の準備期間の後に猛反撃に出る。迎え撃った為光は遂に敗北し、逃亡を試みたが拘束され、子供と孫と共に斬首された。

こうして最初の城主『菊地系宇土氏』は滅亡した。

そんなわけで、菊地氏の手に渡った宇土城。城為冬という人に託された。

城氏菊地氏を長きにわたって支えてきた、菊地氏の右腕ともいわれる一族だった。そんな信頼を置く人物を据えるくらいなので、宇土城がいかに重要であったかお分かり頂けるだろうか…!

こうして城氏の城(紛らわしいね)となったが、宇土為光を倒した菊地能運が、なんと急死。宇土為光と戦った時の傷が癒えず、なんと23歳で亡くなったそうだ。『能運』という名前からして、40代くらいの巨漢だと思っていた。若かったんだね。かわいそうに。

その後、ボスを失った城為冬は力を失い、城氏は没落。宇土城を捨てて、元々いた国に帰ってしまった。城主がいなくなった宇土城は空っぽに。急に需要がなくなって、かわいそうな宇土城。

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≪ 名和のお殿様と小袖餅 ≫

宇土城が空っぽになったのと同じ年、1504年、名和氏当主・名和顕忠というお殿様が宇土へやってきた。名和顕忠は、さっき出てきたの菊地系宇土宇土為光』の娘婿

 名和氏は、ワケあって鳥取に島流しにされた村上源氏の子孫と言われていて、南北朝時代に活躍した一族。

名和氏の家紋は帆掛船。カッコいい。鳥取にいた頃に海運業で財を成したので、元から帆掛船の家紋を使っていたのだが、『船上山』という場所で天皇を守るべく戦い、活躍したので、天皇から改めて下賜されたという、ありがたい家紋。

その後、更にワケあって、お隣の八代城主になるのだが、また更にワケあって八代城を追われ、丁度その時に宇土が空いたので、縁故もあるしということで、宇土城におさまった。

この名和氏に連なる宇土城主は『名和系宇土氏』と呼ばれ、この後80年間宇土城を中心に肥後で活躍していく。

名和氏のお殿様は名前が似ていてめんどくさいので、一人だけ紹介する。

『名和の殿様』こと名和顕孝さんは、みんな社会の授業で見たことあるであろう蒙古襲来絵詞を所有していた人。モンゴルの人と戦うあの絵巻だ。後にこの絵巻は、娘さんの嫁入り道具として大矢野さんのところに持っていかれる。

そんなわけで名和の殿様・顕考さんのほっこりする話を一つご紹介する。

ある日、顕考さんがお忍びで城下を見物していたところ、とある茶屋にて、うまそうな白い餅を発見。「それ、うまそうじゃないか。ひとつくれよ。」といって、餅を箱に詰めていた娘から、ひとつ貰って食べる顕考さん。たいそう満足されたそうな。「あーうまかった。じゃあな。」と言って去ろうとする。いつもはお供がお金を払うので、お金払うという概念がなかった。

「あの、お、お代を・・・。」といって顕考さんを引き止める娘。目の前の人物が『名和の殿様』だとは気付いていない。一方引き止められて自分のうっかりに気付いた顕考さんだが、お金を持ち歩いていなかった。「すまぬ、後で払うから、これを持って城まで来なさい。」と言って、自分の着物の袖をちぎって、娘に渡して帰った。

着物の袖を渡された娘は、意味が分からずお口あんぐり。ところが、娘が貰った袖を見て、町人達はびっくり仰天。「これ、名和の殿様の家紋じゃないか!」(さっき話した帆掛船である。)

「なんてこった・・・殿にお代を請求するなんて!」「お前だけじゃなく、お母さんの命も取られるかもしれないぞ!」「ああ、えらいこっちゃ・・・!」と町人がオロオロ話すので、娘はとっても不安になった。しかし、来いと言われたのだから、行かねばならぬ。勇気を出して城に向かった。

お城に着き、お殿様に謁見する娘。「知らなかったとはいえ、ご無礼をどうぞお許し下さい・・・!」「どうか、お母さんの命だけは助けて下さい・・・!」自分の命を顧みず、一生懸命お母さんの命を乞う、孝行な娘である。

ただ餅のお代を払いたかっただけの顕考さんは、娘の発言にびっくり。「なんて親孝行な娘だ、偉いのう。褒美をやろう!」と言って、餅代以上の褒美を持たせて、娘を家に帰した。

以来、この孝行娘の話が話題となり、この娘と母親が作る餅は『小袖餅』と呼ばれ、宇土の名物となった。ちなみに今でも売っていて、とてもおいしいが、日保ちしないのでお土産には向かないかも。持って帰れなくて残念。

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≪ さよなら、名和のお殿様 ≫

そんな逸話が後世まで残るくらいだから、人望もあったと思われる、名和の殿様・顕考さん。しかし、その治世に終止符が打たれる。

当時九州では、薩摩の島津氏篤姫で有名だね)と肥前の大友氏大友宗麟というキリシタン大名)が勢力争いをしていた。大友氏がいる肥前はすぐ近くなので、宇土もしっかり巻き込まれた。

当時の島津氏はそれはもう強く、遠く大阪の豊臣秀吉にも盾突くほどだったので、名和顕考さんは島津氏に降伏した。名和氏は島津氏の配下に入り、島津軍として戦うことになる。

その後島津氏は大友氏をどんどん攻め、弱り果てて万事に窮した大友氏は、遠く大阪の豊臣秀吉に、助けてくれと嘆願した。秀吉は当時関白天皇の補佐)だったので、大友氏の嘆願を受け取ると、天皇の名のもとに停戦命令の書状を作成し、島津氏に送った。島津氏はこれに従わないばかりか、大阪に兵を向けたので、いよいよ秀吉は兵を集めて九州平定に乗り出した。

そういうわけで、島津氏の下についた名和氏の宇土へも秀吉軍団がやってくる。顕考さんは「降伏すれば、その土地をそのまま治めることを許すよ。」という秀吉の言葉を受け、早々に降伏。秀吉軍に鞍替えした。世渡りが上手。

と、なると、宇土城は秀吉方ということで、宇土城を落とされないように、秀吉軍の守備係がやってくる。この役割を任ぜられたのは、なんと加藤清正宇土城は加藤清正によって、島津軍から守られた。そして宇土城防衛の功績が認められて、後に加藤清正熊本城主になる。因果。

このように上手に渡り歩きながら、宇土を守ってきた名和の殿様・顕考さん。これからも宇土を守っていくのだろうと思いきや、同じ年、事件が起きる。

九州平定後、佐々成政という人に肥後が任された。『ササ ナリマサ』じゃない。『サッサ ナリマサ』である。リズミカル。佐々成政は名前の通り、サッサと統治を進めたかったらしい。肥後に入るやいなや、太閤検地を始めた。太閤検地とは、秀吉が作った基準を基に、土地を評価することを指す。

自分も肥後出身だから言えるのだけれど、肥後は頑固で言うことを聞かない人が多い地域だと思う。そういう県民性を表すために肥後もっこすという言葉があるくらいだ。「急に来て、威張り散らして、何様のつもりか!」ということで、肥後の人々が一斉に蜂起した。これを『肥後の国人一揆という。

佐々成政は、当時病気を患っていたために、統治を急いだという経緯もあったらしく、この肥後の国人一揆を自力で収めることが出来なかった。よって、騒動はどんどん大きくなる。秀吉はこの騒動が他の地域に広がることを恐れて、たくさんの兵を向かわせて一気に鎮圧を図る。

肥後の国人一揆の最中、秀吉方の名和顕考さんは、自身も肥後の国人だからなのだろう、中立の立場をとることにした。反抗の意思があると誤解を受けたらやばい・・・ということで、「反抗しないです!」と大阪まで弁明に向かった。その間、城を開けては危ないので、弟の顕輝に城を任せたのだが、この人がやらかしてしまう。

顕考さん留守の間に宇土城を訪れる秀吉軍。「城を開けなさい!」という言葉に、弟の顕輝は「嫌だ。」と言った。彼も肥後もっこすだったのか・・・。

これにより、秀吉軍は宇土城を討伐名和系宇土の系譜は、弟・顕輝の討死をもってピリオドを打たれた。ここで宇土古城の話はおしまいである。

一方の名和顕考さんはやっぱり賢い人なので、弟がこれだけ粗相をしても、命を取られずに済まされた。この後宇土に帰され、その後は筑前(福岡)の武将・小早川氏の家来となり、その後も上手く生き残った。おかげで帆掛船の家紋は、途絶えることなく現在まで引き継がれている。

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さよなら名和氏!どうなる宇土城!

ということで、近代宇土城編に続く!

江戸城 / 東京都

ちょうど桜が綺麗に咲いているかなという様子見を兼ねて、今回は最も近場の江戸城へ。

 江戸城といえば徳川家ということで、私にとってはあまり好ましくないお城でしたが(一国一城令を出したから)、行って回って調べてみると、なかなかにロマンのあるお城でした。

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平将門首塚

江戸城は非常に大きい上に、電車の便もよく、駅がいくつもあるので、どこから回ろうかと迷う。とはいえ、まずは大手門からでしょう~と地図を見てみると、おやおや!平将門首塚がある!

平将門首塚と言えば、祟りがあるで有名・・・。怖いから調べてから行こう・・・と調べてみると、どうやら江戸城を散策するときは、必ず平将門さんの首塚に、「これから江戸城を散策致します。すみません。頑張ります。」とお祈りをしないといけないらしい。そうしないと、「お前、俺をコケにしてんのか!」とお怒りを買ってしまうかもしれないとか・・・。

平将門さんは戦国時代よりもずっと昔のお方で、平安時代中期の豪族。皆様ご存じ「源氏と平家」の「平家」の先祖で、桓武天皇の五世というスーパー家柄の良いお方。16歳の時に上京し、藤原さんのお宅で警固に励んでいた。それからどんどん力をつけ、ついには朝廷(この時は藤原氏)に物申せるまでの実力者に成長。すると、平将門さんの叔父さん達が、あの手この手で領土を奪おうとしてくる。そして起きたのが平将門の乱

平将門さんは叔父さん達を次々と倒し、ぐんぐんと関東一円を支配。意図せず朝廷に盾突くことになってしまい、ならば仕方あるまい!と、新皇を名乗って関東を独自に治めた。しかしそれも束の間、その話を聞きつけた朝廷は4000人の兵を送り、対する平将門さんの兵力は1000人足らずだったため、遂に打ち取られてしまう。

ちなみに、この時平将門さんを打ち取ったのは、前回行ってきた宇都宮城の初代城主・藤原宗円の一代前の藤原秀郷で、その時に使ったのは宇都宮二荒山神社で授かった霊剣だったとされている。やはり二荒山神社パワー恐るべし。

平将門さんはその後「獄門」の刑に処される。「打ち首獄門」の「獄門」、つまり、首を切って街中に晒すことを指す。なんとこの平将門さんが、歴史上初めての「獄門」なのだそう。

首を切って晒したものの、平将門さんの首は何日経っても腐らず、「俺の切られた五体はどこだ!持って来い!揃ったらまた戦えるから尋常に勝負しろ!」と叫び続けたらしい。怖い・・・。果ては首だけで飛んで、体を探しに行ってしまったらしい。その時、街は暗雲が立ち込め、雷鳴が轟き、恐怖に打ち震えた民衆は、平将門さんの怨念を鎮めるべく、首塚を立てたそうな。

関東近辺にいくつか首塚があって、大手門の前にあるのはその中の一つらしい。

この首塚、過去に震災やら人災やらで何度か潰されそうになったのだが、その度に恐ろしいことが起こり、その度に修復され続けている。大蔵省の役人が10人近く原因不明の死を遂げた事案もある・・・。足を向けて寝れないね。

ところで、「江戸城の正門である大手門の前に『首塚』だなんて、物騒だなあ。別のところにすれば良かったのに。」と思われる人もいるかもしれないが、関東の王の城である江戸城にとって、関東の王のパイオニア平将門さんは神様に等しい。故に、わざわざ大手門を平将門さんの首塚の前にしたのだそう。

まずい、平将門さんについて書きすぎた。

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太田道灌について ≫

平将門さんにお参りをしてから、早速大手門へ。緊張した・・・。さて、大手門はいわゆる正門。正々堂々入りたい人は、大手門から正面突破しよう。

ところで江戸城を作った人は、徳川家康ではない。太田道灌。名前を聞いたことのない人がほとんどだと思う。

太田道灌は、平将門の首が大手町まで飛んできた後の、室町時代後期の人。元々は資長さんだったが、仏門に入ったので「道灌(どうかん)」というカッコいい名前になった。

由緒正しい上杉家の家来で、お家の繁栄のために一所懸命に尽力したのに、めちゃくちゃ頭が良くて、和歌の才能もあり、戦争も上手く、人心を掴むのも上手だったので、主君に嫉妬されて暗殺されてしまった。かわいそう・・・。

そんな太田道灌が関東の防衛のために作ったのが、江戸城。当時は品川あたりがまだ海だったそうで、その海を道灌が航行していた時、「このしろ」というお魚が船に踊り入ったことを「吉兆だ!」として、江戸城を築城したらしい。

太田道灌平将門さんを尊敬していて、この当時から江戸城の北西にて、平将門さんを神として祀っていた。それが、築土神社

ちなみに太田道灌が作った初期の江戸城の名残は、今も「道灌濠」として残っているらしいが、皇居の中なので一般には公開されていない。

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≪ 家康が入ってからの江戸城

道灌亡き後、鎌倉への航行の要所として活躍した江戸城だったが、戦国時代になると徐々に荒廃していく。そこへ、豊臣秀吉から派遣された、徳川家康がやってきた。

家康がやってきた当初は、日比谷の方は海で、神田の方は山だった。平地は海水のために使い物にならず、ひとまずはということで、神田山を崩して、その崩した土で日比谷入り江を埋め立てた。以下のサイトにて、当時の地形を見ることが出来る。

東京港の歴史(歴史紙芝居)|国土交通省関東地方整備局 東京港湾事務所

想像つくだろうか。日比谷が海!神田が山!崩した土で土地が作れるくらいだから、結構なサイズの山だったのではないだろうか。当時は「環境破壊だ!」とかいう人はいなかったのだろうか。たくさんのたぬきが行き場を失っただろう・・・だから家康は、たぬき顔になってしまったんだろうか・・・。

ところで、荒廃していたこ江戸城周辺、疫病が流行り、天変地異が頻発し、人々はこれを平将門さんの呪いだと忌み恐れていた。そこへやってきた旅のお坊さんがその様子をみて、将門さんを手厚くお慰めし、神田明神を建てたらしい。

家康はこの江戸の地に来て、平将門さんの祟りを知り、「これは利用せねば。」と思ったらしい。そして、平将門さんの信仰していた北斗七星の形に神社を配置し、このパワーを江戸城の繁栄に使わせてもらえるように工夫したらしい。

余談だが、スカイツリーは皇居から鬼門の位置にあり、反対の裏鬼門の位置には東京タワーがある。この二つのタワーが、家康の作った北斗七星を分断してしまうので、やばい、という都市伝説がある。

関ヶ原の合戦前、この神田明神で戦勝祈願をした家康はその後、神田祭の日に大勝利を収めたそうな。以来徳川家は欠かさず神田明神に参拝したらしい。

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≪ 桔梗門と桔梗紋≫

そんなわけで、江戸幕府の時代。家康は各国の武将の経済力を奪うために、遠方から石やら木やらを江戸まで持ってこさせ、江戸城の拡張整備に携わらせた。各武将それぞれ持ち場が決まっていたので、皇居をぐるぐる回ると、石垣の形が微妙に違ったり、組み方が違ったり、個性が見受けられて面白かった。この中に加藤清正ゾーンもあるかなあ・・・と思ってみていたら、「桔梗門」なるものが!

「桔梗と言えば加藤清正の用いた桔梗紋」と思って調べたのだけど、桔梗紋は思っていたより深かった。ここで出てきた「桔梗」は、どうやら太田家の家紋らしい。

「桔梗」は「木」を外すと「更に吉」と書くので縁起が良いとされていた。最初に使ったのは土岐氏という一族で、後の武将は「自分は土岐氏の血筋だ」というのを示したいがために桔梗紋を使ったらしい。その中で有名なのは「明智家」。水色の桔梗紋は珍しく、かの織田信長もこの家紋を羨んだと言われているが、その信長を明智光秀が討ち取ってしまったので「逆賊の家紋」としてのイメージがついた。

「土岐」という名前の人凄い説が自分の中にあったので、なんか納得した。

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≪ 富士見櫓が天守

江戸城周りをうろうろしていると、遠くに3階建ての櫓を発見。「3階建て!天守的な!」と思いiPhoneのシャッターを切ったが、逆光でうまく撮れなかった。

この三階建ての建物が1659年に再建された富士見櫓で、その下の石垣はなんと我らが加藤清正作だった。どおりで綺麗な石垣だと思ったら・・・!近くで見たかった・・・!

江戸城天守閣は、実は明暦の大火というめちゃくちゃ大規模な火災で燃えてしまい、それから再建していない。その後天守の代わりを務めたのが、この富士見櫓!天守の再建をしなかったのは、街の復興を優先したかららしい。ちょっといい話じゃないか。

この後、「かの江戸城天守がないのに、うちが天守持ってるのは忍びない・・・(反感買いそうだし)」ということで、諸国の大名は「天守」を「御三階」と呼ぶようにしたり、大きい天守を無くして二階建ての建物に作り替えたりした。これで天守を失った城も多いので、悲しみ。

この奥に小さく見えるのが富士見櫓。

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≪ 微妙な違いを見出しながら歩く ≫

てくてく歩いていくと、辿り着くのが桜田門井伊直弼が暗殺された場所!江戸城で最も有名なスポットではないだろうか。他の門に比べて、結構小さかった。こっそり入ろうとしたのに見つかって、殺されちゃったんだろうなあ。ううむ・・・。なんて感慨に耽って眺めた。井伊直虎の子孫だよね、井伊直弼

音楽好きな人なら知っているであろう日本武道館、そこに入る前に通るのは『田安門』桜田門より全然大きい。江戸城の規模感が伝わる、国の重要文化財。知らずに通ってる人もいるのでは!

 江戸城には主要な門が57もある。皇居を回れば門に当たる。どれも名前がついていて、その名前の由来を調べながら歩くのも楽しい。

また、皇居周りをぐるりと囲む石垣も、よく見ると積み方が違ったり、使っている石が違ったりして面白い。ちなみに私は石垣が一番好き。穴太衆の末裔さんにいつかお会いしてみたい。

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≪ 桜の名所、千鳥ヶ淵

大手町からぐんぐん歩くと、左手に国会議事堂、最高裁判所イギリス大使館などを通り過ぎて、石垣の真横を歩く道にたどり着く。この道が北の丸公園へと続く。ここまで来ると、外はもう真っ暗になっていたが、河津桜がライトに照らされて綺麗だった。

ぐんぐん歩いて武道館を横切り、田安門を抜けると、お花見の名所・千鳥ヶ淵に到着!

お昼に来るとめちゃ混むので、大手町スタートの千鳥ヶ淵フィニッシュで夜桜見物という行程にしたのだけれど、夜でもなかなかに混んでいた。

咲き具合は4/2時点で5分咲きといったところ。満開まではもう少しかかりそうだった。それでも十分綺麗だったけれど!

桜と言えば江戸の華というイメージがあるけど、この桜が植えられたのは明治の頃で、江戸時代にはなかった光景らしい。

更にここから30分ほど頑張って歩くと神田明神があるので、平将門さんに始まり平将門さんに終わるツアーにしたかったけれど、寒くて断念。また別日に行こう・・・。

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≪ まとめ ≫

というわけで私の江戸城ツアーはあっちこっち寄り道をしながら3時間で終了。半周しかできなかったが、我ながら良いルートだった。皇居一周は走って1時間半くらいだと思われる。

江戸城は徳川の城だと思ってたから、あまり好きじゃなかったけど、調べてみたら歴代関東の王が意思を託してきた城だということが分かった。ロマン・・・。あと都市伝説が満載。平将門さんをめぐるエトセトラが、江戸城の神髄だった。

関わっている人物が多いから、芋づる式に知識も増えて、とても面白かった。直近で行ってきた宇都宮氏の先祖が出てきたのはビックリした。

日本酒情報館とか、靖国神社とか、近隣に色々面白いスポットもあるので、散策・お花見がてら、是非江戸城に行ってみてほしい。あ、首を切られても生きられるということで、サラリーマンの参拝者が多いらしい、平将門さんの首塚

ちなみに、大手門近くの日比谷公園にある松本楼のオムレツライス、オススメ!

さて、次はどこに行こうかな・・・!

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宇都宮城 / 栃木県

the boat roomという栃木の仲良しバンドの船出企画にソロでおよばれし、ソロで身軽だし電車移動だし、折角なら一泊して翌日存分に楽しんでしまおうということで、2日目にお気に入りのスニーカーを履いて、歴史探訪&餃子食べ歩きを計画。

1日目、ライブ後に栃木の皆さまと話していた折、2日目どこ行くのという話になり、宇都宮城はお城好きだし駅チカだしマストだと話したら「ガッカリするからやめといたら…?汗」という声多数。

確かに後世に復元したものだし、将棋で言ったら王将的な存在である『天守』という建物がないし、仕方ないんだけれど「宇都宮城って関東七名城のひとつだったんだぞ…?大事にして…?」と涙ぐみつつ、餃子食べながら宇都宮歴史散策をした。

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≪ 宇都宮の由来 ≫

そもそもなんで『宇都宮』というのかみなさん由来をご存知だろうか。宇都宮城の土塁の中にある資料館で、優秀な説明おばちゃんからお話を聞いたところ、宇都宮の中心あたりにある『宇都宮ニ荒山神社』という神社がこの土地をかつて治めた『宇都宮氏』の起源で、その『宇都宮ニ荒山神社』が界隈で一番偉い『いちのみや』という称号をもってたから、『いちのみや』が転じて『うつのみや』になった説が有力らしい。

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≪ 宇都宮氏は武家じゃなかった ≫

かつて宇都宮を治めていた『宇都宮氏』は戦争強いで有名な立派な武家だったが、その宇都宮氏の初代当主は、なんとお寺の一番偉い僧で、その初代当主・藤原宗円が座主を務めていたのが『宇都宮ニ荒山神社』。

『ニ荒山神社』に『宇都宮』をわざわざつけるのは、『日光二荒山神社』も存在するからで、2つの神社は名前は同じだけど名前の由来は全然違う。『宇都宮二荒山神社』が祀ってるのは闘いの神様で、宇都宮氏に武勲があるのはそのためらしい。

宇都宮氏は戦国時代が始まるまで、和歌がとても上手なことで知られていて、百人一首の成立に貢献したといわれる歴代当主もいる。戦争も強いし和歌も達者だし『文武両道』と言われていた。宇都宮氏は約500年ほど続いた。

しかし、伝統ある家系で、文武両道となると、偉い人の目に障る。宇都宮氏のお家騒動に乗じて、宇都宮氏の歴史にピリオドを打ったのは、豊臣秀吉だった。『羽柴』という秀吉のかつての苗字を与えたり、親しく接してきたのに、諸々政治的理由で突然「宇都宮氏はもうおしまい解散!」と命じられたのだと。辛い。

その後宇都宮氏は水戸藩に仕えたらしいが、もともと文武両道一族なので、水戸藩でも大いに活躍し、大変重用されたらしい。凄い。

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≪ 宇都宮氏改易後の宇都宮城

「もうお家終わりです解散!」という命令を『改易』という。宇都宮氏改易後に宇都宮城に入城したのは、あまり良い噂のない『浅野 長政』。秀吉の義理の弟です。

その後に入った『蒲生 秀行』は会津の殿様だったのに、会津から宇都宮に転勤させられた人。その後武勲を立てて、会津に帰る。この頃は豊臣秀吉時代なので、宇都宮城はさほど重要視されない。この後徳川の時代になると、日光が重要な場所になるので、宇都宮城が大事にされるようになる。日光へ向かう将軍が泊まる別荘みたいな感じ?

そういうことで、歴代徳川家ゆかりの家が、その後の宇都宮を治めてゆく。

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戊辰戦争の戦地になる ≫

こうして徳川ゆかりの人物が宇都宮城を治めていたのだけれども、江戸城無血開城した後、諦めきれない旧幕府軍と、主導権を獲得した新政府軍の戦争が始まると、歴代徳川に仕えてきたこ宇都宮城の当主は、なんと新政府軍についた。

元々、幕府より朝廷を尊重する尊皇思想が強く『宇都宮天狗党』という外国出て行け勢力が宇都宮で幅を利かせていて、幕府から何回も怒られてたらしい。そして戊辰戦争になると、新政府軍に味方したということで、いよいよ宇都宮城旧幕府軍から猛攻撃されて、落城してしまう。この時に攻めてきた土方歳三が、足に大怪我を負ったらしい。

しかし戸田さんはそれでもめげず、なんと宇都宮城を再度奪い返す。やはり武勲の神様がいるから強いのか…?取り返したものの、この時にお城も、宇都宮二荒山神社も、燃えてなくなってしまった。この一連の流れを『宇都宮戦争』と呼ぶ。宇都宮氏が500年守った宇都宮城、知らん人たちに回し回され全焼なんて、辛い。戦争が憎い…。

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≪ 復元されたお城 ≫

その後の第二次世界大戦などで結局宇都宮城は跡形もなくなったが、2007年!つい最近!櫓二つと塀が復元された。

世の中には城跡しかなくて、それこそ公園に石碑しかないところがいっぱいある中、復元しようという動きが出ること自体、お城愛だと思う…!

でもめちゃお金かかるし時間かかるので、完全に再現は無理で、土塁を鉄筋コンクリート製にして中を空洞にし、そこに災害時の備品などを蓄えるのに活用することで、防災施設として生まれ変わった。市民を守る宇都宮城、良いじゃないですか…!お祭りなどイベントも定期的に行なっているそうで、市民の憩いの場になっている。素敵やん…。

それに、櫓と塀はきちんと木造で、漆喰塗籠の白壁でちゃんとしてる!史料がないからちょっと簡略になってるところもあるけど、史料に忠実に頑張って作ってあった!材料も極力栃木県産を使ってあるそうな。愛だな〜。世の中にはもっと雑な城もある…。

櫓しかないからしょぼいと思われがちだが、元々櫓しかない。徳川の時代にお城作りはかなり制限されたので、三階建て以上の建物は作れなかった。江戸時代の初めあたりまで天守という三階建て以上の建物があったらしい。しかし、徳川の目が光まくりだったので、その後天守はなくなり、二階建ての『清明台櫓』を天守の代わりにしていたそうだ。だから、今復元されてるあの小さい建物が一番偉いんだ!よ!なので大事にしてあげてほしい!

とはいえお城って高さだけじゃなくて、日光参拝の折々に将軍をもてなした宇都宮城だし殊更、御殿がメインってところはあったろうに。御殿はめっちゃでかいから、復元するの大変だと思うけど、少しづつ復元して、宇都宮市民が胸を張って「行ってこい!」と言えるお城に戻れたらいいのだけれどなあと思う。夢…。

あと、お城のジオラマやら史料やらを無料で見れるところもアツかった。お金取らないの?!タダでお城見ていいの?!史料も?!最高かよって思った。説明してくれるおばさんも凄く上手に説明してくれたし、とても満足した。ポケモンもいっぱいいたし。

城址公園の中にある資料館(これも無料)に行ったら、縄文土器やら何やらがたくさんあってなんで?と思ったら、戸田氏が天皇のお墓の修復に携わっていたからだった。戸田さんも文武両道だったっぽい。二荒山神社パワー。

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≪ まとめ ≫

栃木の人って仕事できて、美男美女で、素敵な人いっぱいと思ってたけど、ルーツがあったんだなーと思った。ただの武家じゃないんだよ…!めちゃ偉い僧が起源なんだよ…!しかも武勲の神なんだよ、かっこいい…!

しかも初代から3代目の当主までは京都の生まれの人だから、雅なんだよ…!だからみんな大らかなのかな!かっこいい!

お城は櫓だけだけど、二荒山神社はがっつり綺麗に作り直されてるから、宇都宮市民にとっての城は二荒山神社なのかもしれないと思った。史料が多いからかも知れんけど!

ていうか、東京もそうなんだけど、山崩して川の流れ変えてお城作ってるから、駅出てすぐのあの川とか、いわばお城の一部ですからね!城跡見るだけじゃないんだよお城は!お寺がいっぱいあるのも戦略だったんですからね!そう考えるとお城の名残はいっぱいあったなあ〜。

すごく長く色々書いたけどもっと偉い人いっぱい出てくるし、色んな話あるし、こんなにネタの多いお城そんなにたくさんないよ!wikipedia超長いし!いいお城だよ!関東七名城だぞ!頑張れ宇都宮城

ちなみに餃子の方ですが、歴史探訪しながら食べ歩いたらエンドレスで食べられた。何軒も回ったけど、香蘭がアベレージ高かったなあ。餃子屋さんと観光スポットの配置が凄くいい感じなので、歩ける系の歴史好きにはピッタリだと思った。人気の餃子屋さんはめちゃ並ぶけど、諸々ルート組んで行列スルーしながらぐるぐる回ってたら、行列回避もできて無駄がなかった。餃子も宇都宮も最高だった!オススメのお城スポットに認定する! 

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