お城探訪記

お城に赴き、お城を語るブログ

近世宇土城 / 熊本県

 【 第3回 宇土古城 / 熊本県 】の続きです。

前回までのお話

歴史ある街・宇土で繰り広げられる栄枯盛衰!

強い野心で下剋上を試みる宇土為光
迎え撃つは肥後の守り人・菊地能運
しれっと宇土城主に収まる名和系宇土
餅のお代も支払われ、円満解決もつかの間!
九州平定肥後の国人一揆など苦難の末…

名和氏80年の治世が遂に終わりを迎えた!
主を失った宇土城、次なる城主は…?

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≪ 商人出身キリシタン小西行長

名和顕考のいなくなった宇土城。

豊臣秀吉から派遣され、次に殿となったのは小西行長という人である。

小西行長さんは商人出身キリシタンという、ちょっと変わってる武将。大阪・堺の商人の家に生まれ、岡山の呉服問屋に養子に出された。商売で何度か顔を合わせていた宇喜多直家という武将が「こいつは光るものがある。」と行長さんの才能に目をつけ、家臣に抜擢され、武士に転身した。

その後、宇喜多家にて船奉行を務めた行長さん。宇喜多氏から大変重用され、織田信長に降伏する際には、宇喜多氏の使者として、当時はまだ羽柴だった秀吉のもとへ遣わされたらしい。その際に秀吉の目に留まり、重用されるようになったといわれている。

こうして秀吉に気に入られた行長さん。実はお父さんも秀吉に気に入られていて、小西隆佐という名前。なんだかシュッとしている。小西一家は全員キリスト教徒だったので、海外との貿易にアドバンテージがあった。小西家はこれを生かし、堺(大阪)を出入りする船の取締役を担うことで、織田・豊臣時代に成り上がったのだと言われている。

画像は宇土市マスコットキャラクター、うとん行長しゃん。

熊本弁で「宇土の行長さん」という意味。

可愛いけど、威厳の「い」の字もないので少々不安になる。

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宇土城・小西行長モデル ≫

小西行長さんは、さっき話したように、外国とのやりとりが得意だった。九州は南蛮貿易が盛んで、秀吉さんは南蛮貿易をしたいと考えていた。宇土は、長崎などの貿易拠点に目が届きやすい位置にある。

朝鮮出兵もこの時、既に想定されていた。行長さんは、宇喜多家時代から長きにわたり、船奉行として海上を取り仕切ってきた経験から、兵糧や武器を入手・供給するなどといった、船を使った後方支援が得意だった。そのため、朝鮮に近く、入海の地形を持つ宇土の特性をうまく活かせるだろう見込んで、秀吉は行長さんを宇土城主にした。

こうして宇土にやってきた行長さん。一旦は宇土古城に入るが、宇土古城は山の方にあり、城下町も狭かったので、海寄りに新しいお城を作ることにした。ということで、自分の領地と、お隣の『天草』という地域の有力者に協力を要請した。

ところがこの天草にいた『天草五人衆』という人達がまた肥後もっこす(熊本県の県民性・頑固を表す言葉)を発揮する。天草五人衆こと天草氏・志岐氏・大矢野氏(名和顕考の娘婿)・栖本氏・上津浦氏は、九州平定後に秀吉から「君たちはそのまま、そこにいて良いよ。」と所領を安堵されていたので、行長と自分たちは同レベルという認識だったらしい。「秀吉からの依頼なら受けるけど、お前個人の手伝いをする余裕なんてないよ。」という嘲りの返信を寄越してきた。こんなことを言われて黙っているわけにはいかない。行長さんは天草に兵を出した。

しかし流石は九州男児、地の利もあり、相手は強い。なかなか攻略することができない。行長さんは、肥後のもう半分を任されていた、加藤清正に応援を要請する。容赦ない猛将・加藤清正も加わって、天草五人衆は壊滅、行長は天草も治めることになった。

ということになっているが加藤清正、呼んでもいないのに勝手に来た説」というのもあって、ともかく両者が不仲になったきっかけは天草国人一揆らしい。有名な話だが、二人は仲が悪い。多分行長さんはB型で、清正さんがA型、だと思う。逆かもしれない。

そんなこんなで、やっと宇土城築城に取り掛かる。

 行長さんの宇土は、キリシタンであることもあり、南蛮様式を取り入れた、とてもかっこいいデザインだったらしい。九州で初めて石垣を持つ城となったのは近世宇土城だと言われている。鶴のように美しかったので『鶴城』と呼ばれていたらしく、現在、宇土城の麓にある学校には『鶴城中学』という名前がついている。

この他にも、麦島城隈庄城木山城矢部城愛藤寺城などの支城を併せて築城し、弟たちや一族の重臣を城主として配置した。

しかし、この後に待つ悲劇のために、宇土城に関する資料はほとんど残っていない。

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小西行長 vs 加藤清正

行長さんは、秀吉が亡くなるまでの間に大変重用され、宇土城下も賑わった。行長さんの治世が、宇土が最も栄えた時期ではないかなあ。

行長さんが来る前から、天草はキリスト教が多いところだったが、行長さんが手厚く保護したので、キリスト教徒が人口の2/3を占めるまでに増えた。これに連なり、海外との貿易も盛んになった。

 そうして肥後北半をまあるく治めていく行長さんであったが、肥後の南半分を所領とする加藤清正とは実に反りが合わず、領土の境界線を巡って喧嘩し続けた。犬猿の仲というやつである。多分、犬が清正公で、猿が行長さんだと思う。逆かもしれない。

「薬屋の息子の分際で!」「うるさい臆病者!」みたいな言い合いをしていた、だとか、子供の喧嘩のような、微笑ましいエピソードが多々あるが、当人たちは殺したいほど嫌いあっていたらしい。不仲はどんどんエスカレートしていく。

朝鮮出兵のエピソード。行長さんが朝鮮のリーダーに加藤清正がもうすぐ攻めてきますよ〜。」と戦略を漏洩して、清正の暗殺を企てたらしい。話し合いでまとめたい行長さんと、さっさと攻め落としたい清正では、方針が違いすぎる。食べものもない、敵は倒しても倒しても減らない、極限状態で精神的余裕がなくなると、本当に刺し違えたくなったりすることはある。

そんなこんなで2度目の朝鮮出兵が終わった後、秀吉が病により命を落とす。秀吉を失った家臣団は、武断派文治派という二派閥に分かれゆき、後に関ヶ原の合戦へとつながる。

秀吉が亡くなった後、それまで大人しくしていた徳川家康が、総取りに動き出す。

元々軋轢があった武断派文治派は、リーダーを失って更に溝を深めた。そこを利用したい家康は、石田三成を筆頭とした文治派が、豊臣家に反する一団であるというイメージ工作をしていく。徐々に豊臣家臣団に取り入り、石田三成と、三成に加担する大名をじわじわ陥れる家康。

「もう我慢の限界だ!」怒り心頭に達した三成は遂に挙兵し、豊臣家臣団は、三成を中心とした西軍と、家康を中心にした東軍に分かれた。小西行長さんは三成と親しかったので、西軍で参戦することになる。

 奮戦した三成率いる西軍だったが、事前に家康により工作されていた西軍側の裏切り多発により、みるみるうちに形成は不利に。大規模な戦であったにも関わらず、勝敗は半日で決してしまった。

この敗戦により、小西行長は捕縛され、さらし者にされた後、斬首された。

一方その頃、加藤清正は、家康から「自力で自分のものにできたら、肥後は全部君にあげるよ。」という書状をもらう。かねてより肥後一国を手中に収めることを狙っていた清正は、小西行長が合戦に出ており不在であるうちに、肥後北半の城を攻め落とし、自分の領地にしてしまった。

この時、行長さんに代わって城を守っていたのは、弟の小西隼人。敵方も認める程の采配で持ちこたえたが、関が原での西軍大敗の知らせを受けて降伏。「自分が腹を切るから、家臣全員の命を救ってほしい。」という条件で降伏し、切腹した。そのため、小西家家臣はこの後、清正に引き取られた。

憎きライバル・小西行長キリスト教だったこと、自身が熱烈な日蓮宗だったことから、加藤清正は領内の人々に対し、キリスト教の棄教を強いた。そして、これに従わなかった多くのキリスト教徒を弾圧、迫害した。

写真は熊本城の天守閣付近にある宇土。清正によって奪われた、宇土城の天守だと言われていたが、それは間違いであることが調査で判明した。宇土城攻略後、清正に引き取られた小西家家臣が、ここを任されたと言われている。

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小西行長の殉教 ≫

関が原の戦いにて劣勢となり、敗走を余儀なくされた小西行長さん。関が原にほど近い、伊吹山の中へ逃げた。その山中にて、林蔵主という庄屋に出会う。

行長さんは林蔵主に「私は肥後の領主の小西行長だ。私を捕まえて徳川家康に引き渡せば、あなたは褒美をもらえる。連れていきなさい。」と伝えた。これを聞いて林蔵主は「何言っているんですか、早くお逃げなさい。」と促したが、行長さんは「私はキリシタンなので、ここで終わりと覚悟しても、自殺をすることができない。連れて行ってくれ。」と答えたそうだ。林蔵主はその覚悟に驚きながら「分かった。」と言い、家康の本陣まで行長さんを連れて行った。

捕まった行長さんは、石田三成安国寺恵瓊(えけい。毛利輝元を西軍総大将に担ぎ出した人。)と共に、大阪・堺の市中を引き回された。行長さんにとっては生まれ故郷の堺。最期の時を前に、どんな心持ちで町を眺めたのだろう。そしてその2日後、京都の六条河原にて処刑される。

先に話したように、行長さんはキリシタンなので、処刑に際しても切腹はせず、斬首という方法を取られた。通例ならば浄土教の僧侶によってお経をいただくが、これも拒否し、ポルトガル王妃にもらった聖像を拝んだ後に首を討たれたと言われている。

切られた首はその後三条河原に晒されたが、行長さんの遺骸はその後、イエズス会というキリスト教を日本に布教した修道会(ザビエルでおなじみ)の人々に引き取られた後、『告解の秘蹟という、罪を神に許してもらう儀式を受け、キリスト教の方式で埋葬されたそうだが、どこに眠っているかは不明。

小西行長(洗礼名・アウグスティヌスが斬首された話は遠くローマまで伝わり、教皇クレメンス8世さえもその死を悼んだそうだ。ヴァチカンで法皇による追悼を受けた唯一の日本人だともいわれている。また、イタリア・ジェノバでは、行長さんの死から7年後、行長さんを主人公とする音楽劇(AGOSTINO TZVNICAMINDONO)が作られる。一方日本では敗戦武将として扱われ、印象の悪い話ばかりが残っていくことになる。

戦争があまり得意ではなく、人脈交渉術で世界に認められた小西行長さん。資料なども消されてしまったため、国内では未だ不明なことが多い。本当はもっと素敵な人だったんだろうになあと、ぼんやり想いを馳せる。

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≪ ジュリアおたあという女性 ≫

行長さんの死後、その親類一同は身柄を追われたが、その中で家康に見初められ、大奥に侍女として召し上げられた女性がいた。

その女性は朝鮮出兵の折、朝鮮から日本へ連れてこられ、小西家に猶子(養子よりルールがゆるい縁組)として引き取られたという、異色の経歴を持つ人物だった。キリスト教の洗礼を受け、ジュリアおたあという名前を名乗っているが、本名は不明。ジュリアおたあ、一回聞いたら忘れられない名前。

ジュリアおたあは、行長さんの正室・菊姫により教育を受け、小西家伝統の薬学の知識を特によく吸収したそうだ。行長さんも菊姫も、彼女を大事に育てたらしい。信心深い才女に成長した。その才気に家康はコロッといってしまい、侍女として側に置き、寵愛した。

他の小西家の人々と同じく、彼女のキリスト教への信仰は本当に強いものだった。昼は侍女として働き、夜は祈祷して聖書を読むという生活を続けた。彼女によってキリスト教信仰に導かれた者も多くいたらしい。

この頃キリスト教弾圧を始めた家康は、ジュリアおたあにもキリスト教を棄てるように迫るが、彼女はこれを断固として受け入れなかった。併せて、正式な側室にしてやるという家康のオファーにも難色を示し、これに怒った家康は、彼女を島流しにした。その後何度も「言うことを聞けば許してやるぞ。」と赦免をチラつかせた家康であったが、ジュリアおたあはこれに一切動じず、この後更に2度の島流しを受ける。なんという信心深さ。その後大阪の神父の援助を受けて島を脱出し、長崎に渡ったと言われているが、真相は定かではない。

ちなみに、サザンオールスターズ『夢に消えたジュリア』と言う曲があり、ジュリアおたあ伝説を思わせる歌詞なのだが、この曲はピンク・フロイド『夢に消えるジュリア』をもじって作った曲で、ジュリアおたあのことは、歌詞を書き終えてから知ったらしい。ソロでどうにかこうにかカバーしようかなあ・・・!


サザンオールスターズ -

 

 

 

≪ その後の宇土

 加藤清正によって攻め入られ、清正が治めることとなった宇土。この後、清正の隠居用に大改修されたが、すぐに加藤清正が病に倒れ、死去。その後、キリスト教徒による天草・島原の乱が起きた際、領民が城に立て篭もり手を焼いたという一件から、そのようなことが今後ないようにと、西国の城はことごとく壊された。併せて「今後一切ここに何も作るな!」という命令が出されたため、城跡はさら地となったまま、現在に至る。

しかし宇土は相変わらず要所だった。

細川ガラシャをご存じだろうか。関が原の合戦の前、西軍が東軍の妻子を人質に取ろうとした折、これを断固拒否するとして自害し、遺体が残らぬように屋敷ごと燃やしたことで有名な女性。「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ 」という辞世の句も有名。その夫の忠興さんは、豊後という地域を治めていた人で、関ヶ原の合戦での活躍に対する報酬に、豊前の一部も任され、九州の上の方40万石近くを仕切る大名となった。三男・忠利家督を譲ると、四男・立考が治める、宇土の近所の八代城(麦島城)に隠居した。この立考を溺愛していた忠興は、立考を藩主にしたいと熱望しており、八代城9万石を渡そうとしていたが、目前にして立考が亡くなり、叶わなかった。相当気落ちしてしまったのか、後を追うようにして忠興も亡くなり、立考の息子・宮松が残された。

当時の熊本藩2代目藩主・細川光尚は、まだ幼い宮松には任せられないということで、八代城主を筆頭家老(一番偉い家来)の松井興長に任せ、宇土宇土支藩として、宮松の領地にした。

この宮松は後に名前を細川行考に改め、初代宇土細川藩主となった。宇土城下町(城はないけど)の水質が悪いことを改善するため、という所にある水源から、水道を引いたことで知られている。ちなみに、この轟水源名水百選にラインナップされる名水で、江戸時代に引かれたこの水道は、今も現役で使用されている。

この後宇土細川藩11代続き、細川本家の当主を二人輩出する名家となったが、明治の廃藩置県熊本藩に合併された。細川家は明治以降も名家として続き、多くの偉人を輩出した。内閣総理大臣細川護煕氏も、宇土細川藩の血筋。

このように話題に事欠かない宇土だったが、支藩だったので城は築かれなかった。

現在の宇土はというと、清正が作り変えた石垣が少し残るばかり。本丸があった城山には公園ができており、小西行長の像が建てられている。この小西行長像、去年の大地震の後に見に行ったが、外壁がはがれていたものの、倒れずしっかりと建っていた。画像は地震後の行長像。

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≪ 余談・宇土市役所の話 ≫

城が無くなり、廃藩置県宇土藩が無くなってから何十年も経った1958年、一転二転三転を経て、宇土市が誕生した。

初代宇土市長は大和忠三氏。

人柄も良く、先見の明がある、名君だったそうだ。今でも帰省で宇土を訪れると、大和さんの話を聞くことがよくある。というのも、私の祖父は大和さんの運転手を長い間務めていたからだ。

産交バスの運転手時代に、大和市長の運転手にスカウトされたらしい。バスの運転手さんに声をかけるというのは、人柄を感じるエピソードだなあと思う。

大和さんの具体的な功績については、実は資料が全然見つからないのだが、このサイトで少し紹介されていた。

http://utpan.web.fc2.com/yamatotadami.html

2016年4月、熊本で大地震が起きた際、この崩れかけの建物を目にした人は多いと思う。

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この建物は、宇土市の市役所で、大和さんによって1965年に建てられた。つまり、この写真から51年前にできた建物ということ。そりゃ崩れるだろうなあ。

建設された当時は、それはそれはオシャレでモダンな建物だったらしい。

私の母は当時まだ小さかったが、宇土市宇土市役所といえば、子供ながらに自慢で、宇土市のシンボル的存在だったそうだ。『自慢の市役所』ってなかなか聞かない。よっぽど市民に愛されていたのだろう。最近までその姿を留めていたことにも納得がいく。いわば第三の宇土のような存在だったのではと思う。

今年のGWに訪れた際、その宇土市役所をはじめ、多くの建物が崩れ、空き地となっていた。宇土市役所前には公園があり、大和元市長の銅像が建っているが、その背中が大変寂しげに見えた。

歴史と伝統をたくさん残してきた宇土。失われたものは少なくないが、今を新風の吹き込むきっかけにして、また新しい時代の1ページを綴っていって欲しいなあとぼんやり思う。

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≪ まとめ ≫

さて、今回は故郷の宇土市にあるお城をフィーチャーしてみました。

長くなっちゃったなあ…!これでもかなり省いたんだけれど…!

九州内で獲ったり獲られたりがあるので、一つのお城だけで話をするのが難しかったです。九州人でひとくくりにしてしまう感覚は、ここからきているのかなあ。

いろんな話がありすぎて、つまみ食いみたいなブログになってしまいました。

書ききれなかったですが、ここに書いてない話も、馬門石の話とか、たくさんあるので、歴史と文化の街・宇土市、機会があれば是非訪れてみて欲しいです。

調べきれなかった話もちらほらあるので、見つけたらコメント欄に追記していこうと思います。皆さんも何か「これは違うと思う」とか「こんな話もあるよ」とか質問・感想などなど、お気軽にコメントして頂ければ幸いです。

さて、今回も最後にグルメレポ。
写真は熊本のラーメンチェーン・味千ラーメンのラーメン。
焦がしニンニクが特徴です。

実は東京にも1店舗だけ、池袋にあるらしい。行ってみたい。

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